梅田 晴夫(うめだ はるお、1920年8月12日 - 1980年12月21日)は、日本のフランス文学者、劇作家、小説家、随筆家。本名は梅田晃(あきら)。慶應義塾大学大学院修了。舞台劇やラジオドラマの脚本、物の歴史に関する著述や翻訳などで活躍した。パイプや万年筆などの収集家としても知られる。梅田望夫、梅田みかは子。
1920年(大正9年)、東京府東京市四谷区(現東京都新宿区)愛住町の暗闇坂で、ロシア貿易会社を営んでいた父・梅田潔と文学者の母・玲子の間に、6人兄弟の末子として生まれる。当時の梅田家の家風であった、ヨーロッパ的な生活習慣[1]の中で育ち、1926年(大正15年)、慶應義塾幼稚舎入舎。以後18年間大学院まで慶應の一貫教育[2]を受ける。外国製の家具調度品に囲まれて育った梅田は幼少時から物に対する愛着が深く、5歳ごろから「鉛の兵隊」などの玩具収集に熱中していたが、1930年(昭和5年)の春、家庭教師として梅田の世話をしていた10歳年長の従姉からデ・ラ・ルー社製の万年筆[3]を譲り受けてから、万年筆をはじめとする物の収集に熱中するようになった[4]。知的好奇心も旺盛で、母が丸善から購入した、チッペンデール風の専用書架つきのブリタニカ百科事典第11版は梅田の青年期からの愛読書[5]となる。1931年(昭和6年)に実家が没落[要出典]、梅田は母と共に借家に転居する。1937年(昭和12年)、丸善で全10巻からなる洋書のウジェーヌ・ラビッシュ(英語版)の戯曲集を購入。フランス喜劇の戯曲に興味を抱きはじめる[6]。
1941年(昭和16年)に、戦争のため、母の実家の別荘がある神奈川県中郡二宮町[7]に疎開。大学在学中からフランス文学[8]に傾倒していた梅田は、1943年(昭和18年)「三田文学」に、当時の編集者和木清三郎から書評を書くことを薦められ、卒業論文に当時深い関心を寄せていたフランスのポピュリスト、ラビッシュについて「ラビッシュとその作品」と題する評論[9]を書く。しかし、内容が共産主義的であるとして、当時の内務省から注意を受け、一時「三田文学」が廃刊の危機にさらされてしまう。梅田は急遽、モリエールについての論文を提出し、あやうく処分を免がれる[6]。また、この年梅田は最初の結婚[10]をした。
1944年(昭和19年)、慶應義塾大学大学院仏文学研究科を修了。終戦後しばらくして最初の妻と離婚し二宮在住の女性、石井喜美と再婚。1946年(昭和21年)に中央公論出版部にしばらく勤めたのち、12月から1年あまり、同県内の茶屋町で貸本屋を営む[11]。1948年には慶應文化学院の講師に就任するが、フランス文学の教職活動と並行して、小説の執筆や、ラビッシュなどのフランス戯曲の翻訳活動を始める。1948年10月『群像』に妻の喜美をモデルにした長篇小説『五月の花』の連載を始める。
1949年春、劇作家としての処女作となる舞台劇脚本『風のない夜』を発表。6月には結婚前の娘の心情を描いたラジオドラマ脚本『結婚の前夜』がNHKラジオで取り上げられ、梅田は放送作家としてデビューする。翌年には、『五月の花』が佐藤春夫の推薦を受け、第2回水上瀧太郎賞を受賞。その後、内村直也の門下に入り、劇作家として本格的に執筆活動を開始する。
1951年(昭和26年)、演劇人育成のために、内村と「芸術協会」[13]を設立し、後進の指導にあたる一方、新進脚本家として旺盛な執筆活動を行なった。なかでも舞台劇の『未知なるもの』、ラジオドラマの『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』や『母の肖像』などは聴取者や評論家たちから高い評価を受け、一時は東宝の専属脚本家として川端康成の『伊豆の踊子』の映画脚本[14]を書くなど、昭和30年代にかけて数千本にのぼる脚本を執筆[15]したという。1953年(昭和28年)10月13日、梅田の父、潔が狭心症のため81歳で死去。梅田は当時放送中だったラジオドラマ『みゆき』を小説に書き直し、亡き父に捧げた。
1955年(昭和30年)結核のため妻の喜美が死去。梅田家は東京都渋谷区[16]に転居。しばらくして宝塚歌劇団出身の女優と3度再婚するが、いずれも間もなく離婚。1959年(昭和34年)には映画女優の万里陽子[17](本名:政江)と再婚。翌年、長男望夫[18]が誕生したのを機に劇作家としての活動から退き、広告代理店の博報堂に入社。この時期には仕事の関係で渡欧[19]もしている。1960年(昭和35年)には同社の取締役に就任し、2期4年間その任にあたるが、長女のみかが誕生したのを機に博報堂を退社し、日本放送作家協会常務理事に就任。世田谷区代沢に転居する。
1965年(昭和40年)以降は、親から譲り受けた「梅田ビル」[20]を拠点に作家活動に専念、風俗についての研究を始め、萬物収集家を自称。若者たちに呼びかけて『雑学の会』[21]を主宰し、古今東西の雑学を収集した。その一方で『おんなの有料道路』(オリオン社 1965年)、『紳士のライセンス』(読売新聞社 1969年)など、風俗やトレンドに関する著作の執筆を始める。
1970年(昭和45年)以降の梅田は幼少時から関心を寄せてきた万年筆、時計、カメラなどの物の歴史に関する著述や海外文献の翻訳、パイプ・タバコ・ウイスキーなどの嗜好品や雑学に関する随筆集、実用書やゲーム関連書[22]など、約3年間に30冊におよぶ著書を発表[23]。1972年5月には西洋骨董の同好会『GEMの会』[24]を結成し、アドバイザーとして会の運営に携わった。1970年代半ばには取材のため数回にわたってふたたび渡欧[25]。1975年(昭和50年)には、梅田ビルを拠点に(株)アンティック社を設立し、西洋骨董情報誌『アンティック情報』[26]を創刊する。
1978年(昭和53年)プラチナ萬年筆株式会社と共同で、コラボレート万年筆『プラチナ#3776』[27]を開発。発売後6ヶ月で15万本もの売り上げ[28]を記録し、万年筆愛好家[29]たちの話題となった。1979年(昭和54年)には、多年に及ぶ文化史研究、雑学収集の成果を集大成した著書『博物蒐集館』全5巻(青土社)を上梓する。
1980年(昭和55年)6月、妻帯者の心得を説いた実用書『嫁さんをもらったら読む本』(日本実業出版社)を上梓。続けて共同執筆[30]による文房具についての解説書『ステイショナリーと万年筆のはなし』(東京アド・バンク 1981年)のための原稿を書き上げた後、体調不良のため8月に慶應大学医学部付属病院に入院。12月21日、肺癌のため死去。61歳没。同月23日には告別式が営まれ、愛用のモンブラン万年筆や原稿用紙とともに、港区元麻布の竜沢寺に葬られた[31]。
梅田の作家としての出発点はラビッシュなどのフランス戯曲にあり、処女作の戯曲『風のない夜』は作者自身によると[32]、フランス戯曲からの影響が色濃い習作にとどまっていたという。小説においては母親への切なる愛情が感じられる『母の肖像』や、二番目の妻をモデルにした『五月の花』などにはフェミニストとしての梅田の一面が見られる。しかし、後年、梅田は著書のなかで、女性に対して差別的な発言[33]を行ない、物議[34]をかもした。なお、梅田が小説を書いていた期間は自作戯曲のノヴェライズを含めて5年程であり、まもなく劇作家へと転身する。
舞台劇ではジロドゥやアヌイ、ピランデルロなどの翻訳紹介のほか、創作でもいくつかの作品を残している。なかでも『風のない夜』に続く梅田の第2作目の舞台劇『未知なるもの』は梅田の代表作[36]のひとつに数えられるが、この作品の第1稿は評論家の戸板康二から賞賛され、梅田は大いに気を良くして舞台初日を観劇したものの、脚本の未熟さに恥ずかしい思いをし、以後は役者の演技を見ながら脚本を書き直してゆく手法を取るようになったという逸話[32]が残されている。梅田と演劇との関係は晩年まで続く。
1960年代末ごろから趣味関連の随筆家としての活動が主になっていく。その中でも『宝石と宝飾』など、東京書房社から刊行された一連の限定出版書籍のいくつかには梅田が愛用の万年筆で署名している。この時期には50冊におよぶ著書を発表した。
1980年(昭和55年)に還暦を迎えた梅田は『嫁さんをもらったら読む本』を上梓。梅田はあとがきで、それまでの破綻の多かった結婚生活を反省し、ふたりの子供をはじめとする後の世代への遺言であると述懐し、自身の活動に一区切りをつけようとした。続けて、自身の収集家としての活動の集大成として、1884年にウォーターマンが万年筆を発明してから100周年となる1984年(昭和59年)までに『万年筆100年史』を執筆する計画を打ち出すが、果たせずに生涯を閉じた。
客観的に梅田の文筆活動を総括すると、1960年代後半から1979年までが最も活発であり、自身の趣味に関する分野の著述・翻訳において最も光彩を放っていたと言える。小説・随筆・戯曲・翻訳など幅広い文筆活動を行なったが、結果的に時流に沿ったテーマの著書が多かったため、趣味人[37]の作家というイメージが強かった。著作もトレンド関連書など、その多くが時の流れとともに風化していく運命にあることは否めない[38]。
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