松柳亭 鶴枝(しょうりゅうてい かくし)は落語・百面相の名跡。3代目の死後は空き名跡となっている。
先代
初代春風亭柳枝の門に確認されている。亭号は立川や春風亭、松録亭など多岐にわたり定かではなく活動実態、生没年不詳のため代外。天保末から安政頃に実在したと推測。
初代
(1846年7月 - 没年不詳)本名:北川 藤吉。
最初は2代目春風亭柳枝の門で噺家になったがすぐに廃業し、幇間の桜川芝孝の門で小芝、噺家に戻り初代談洲楼燕枝の門で鶴枝となった。持ち芸、百面相に「生人形」の名称を付け得意とした。
特に歌舞伎役者の顔芸が得意で10代目片岡仁左衛門(3代目片岡我童)の真似では他の追随を許さなかった。そのため「松嶋屋」(仁左衛門家の屋号)と言われた。「鮹のゆであがり」(鮹が茹で上がるまでを生人形で演じきる)の芸はこの人が元祖で「上赤の鮹」という口癖があった。
鶴枝は鹿芝居にも度々出演していた。
明治30年代初め頃まで番付に見えるが没年ははっきりしない。
2代目
2代目 松柳亭 鶴枝
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本名
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高橋 喜太郎
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生年月日
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1863年5月13日
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没年月日
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(1923-04-01) 1923年4月1日(59歳没)
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出身地
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日本
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師匠
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春風亭柳花 3代目五明楼玉輔 初代三遊亭圓右 4代目三升亭小勝 3代目柳家小さん
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名跡
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1. 桜家花雀(? - 1889年) 2. 五明楼言輔(1889年 - 1891年) 3. 桜家花雀(1891年 - 1892年) 4. 八光亭春輔(1892年) 5. 八光亭福輔(1892年 - 1895年) 6. 三遊亭右雀(1895年 - 1896年) 7. 三升亭勝之助(1896年 - 1899年) 8. 2代目松柳亭鶴枝(1899年 - 1923年)
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活動期間
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? - 1923年
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活動内容
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百面相
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(1863年5月13日 - 1923年4月1日)本名:高橋喜太郎。
最初は春風亭柳花(松平乗房)の門で桜家花雀といい、1889年、1890年ころに3代目五明楼玉輔の門で言輔となった。1891年、1892年ころに桜家花雀に戻り、1892年3月に春輔、8月には福輔、1895年5月に初代三遊亭圓右の門で右雀、1896年9月に4代目三升亭小勝の門で勝之助となり、1899年、1900年ころに3代目柳家小さんの門で2代目を襲名した。先代の初代譲りの生人形を百面相と名を変え演じていた。
人物から動物まであらゆる百面相を得意とした。初代から何度も伝授を懇願したが、初代は「よしねぇよ、労多くして功少なしと伝う奴だから、同じ苦労するなら噺を身を入れた方が好いぜ」となかなか教えてくれなかったという。しかし晩年に病床で顔芸を教わり息を引き取ったという美談が残っている。
上方では浪花三友派に招かれており初代同様に「鮹のゆであがり」を演じ風貌までもが鮹に似ていたので「タコの鶴枝」とあだ名された。
享年61(満59歳没)。墓は妙源寺、戒名は真敬院法喜信士。
3代目
(1895年 - 1947年3月6日)本名:尾藤 三五郎。
- 2代目松柳亭鶴枝の門下で古松家鶴輔を名乗り1913年1月に初舞台。
- 1924年6月、真打と同時に3代目を襲名し神田白梅亭で真打披露している。
- 世相を取り入れた百面相で風俗習慣を擬態化して演じていた。また小道具を遣った形態模写や顔真似にも力を入れた。
- 第二次世界大戦の時に理由は不明だが引退している。
- 尾藤イサオは実の息子。歌手で女優の尾藤桃子は孫。
享年51。墓は新宿の法蔵寺。戒名は「鶴誉浄念信士」。
4代目
柳亭市童が2025年3月に真打に昇進し、合わせて四代目の名跡を襲名予定[1]。三代目の没後約78年ぶりの名跡復活となる。
出典
- ^ 新しい名前 - 柳亭市童「市童の日乗」(note)2024年7月20日
参考文献