松平 康載(まつだいら やすとし)は、武蔵国川越藩の第2代(最後)の藩主(知藩事)。松井松平家13代。のち同家を離れ、旧上野国安中藩主・板倉家を継いで板倉 勝観(いたくら かつみ)を名乗り、子爵となった。
嘉永7年(1854年)10月11日、信濃国松本藩の前藩主[注 1]松平光庸の九男として誕生した[1]。慶応4年(1868年)8月29日、川越藩主・松平康英(松井松平家)の養子となる。明治2年(1869年)4月10日、康英の隠居により家督を相続し、版籍奉還を願い出た。同年6月10日、従五位下・周防守に叙任される。同年6月25日、版籍奉還に伴い、川越藩知事に任じられた。藩政改革に着手し、また、康英の代に収公された2万石の返還がなったが、財政難を克服することは出来なかった。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で知藩事職を免官された。その後、松平姓から松井姓に改め松井康載を名乗る。明治12年(1879年)3月15日、隠居し、家督を養子の松井康義(先代・康英が隠居後にもうけた次男)に譲った。明治13年(1880年)4月14日、位記を返上し、実家の戸田家(こちらも松平姓から改めた)に戻った。実家に復籍後、戸田央と称した[1]。
明治19年(1886年)2月9日、板倉花子(上野安中藩主板倉勝殷の三女。前板倉勝任夫人)と結婚し、板倉家に入籍する。同年4月6日、板倉家の家督を相続する[1][2]。同年4月9日、板倉勝観と改名する[3]。板倉家は花子が女戸主のため、叙爵が遅れていたが、同年4月10日に従五位に、同年4月24日に子爵に叙せられた[注 2]。
父母
夫人
子女
養子