松平 宗昌(まつだいら むねまさ)は、江戸時代前期から中期の大名。越前国松岡藩2代藩主、のち越前福井藩9代藩主[注釈 1]。官位は従四位下・侍従・内匠頭。
延宝3年(1675年)6月23日、松岡藩初代藩主・松平昌勝の3男として松岡にて誕生した。母は中根氏(葉津)。幼名は仙鉄。
元禄6年(1693年)、最初は昌興(まさおき)と名乗る。父の死去により越前松岡藩を継ぐ。このときの名乗りは昌平(まさひら)である。享保6年(1721年)に本家の藩主となっていた弟・松平吉邦が嗣子無くして死去したため、12月11日にその跡を継ぎ、18日に侍従に任じられた。このとき、松岡藩は本家に併合されて廃藩、福井藩は合計30万石となった。8代将軍・徳川吉宗より偏諱を拝領して宗昌(むねまさ)と改名する。
40代半ばを過ぎての本家相続であり、当時としては既に跡継ぎを望むには高齢で、かつ後継者がなかった。そのため、藩主就任と同時に幕府の指示により、白河新田藩主松平知清の次男宗矩を養嗣子とする。福井藩に相次いだ当主後継を巡る御家騒動の再発を防ぐための、幕府の事前措置と思われる。宗矩は先代藩主・吉邦の一人娘を正室に迎える。享保9年(1724年)4月27日、宗昌は江戸で死去し、跡を宗矩が継いだ。享年50。墓所は東京都港区虎ノ門(西ノ窪)の天徳寺。のち東京都品川区南品川の海晏寺に改葬された。宗昌の死により松平忠昌以来の男系の血筋は断絶した。