持明院 保家(じみょういん やすいえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。権中納言・持明院基家の次男。官位は従二位・権中納言。
嘉応3年(1171年)従五位下に叙爵。承安4年(1174年)従五位上・加賀守に叙任され、安元元年12月(1176年2月)侍従に任ぜられる。
治承5年(1181年)正五位下・紀伊守に叙任。元暦2年(1185年)には淡路守に任官し、文治5年(1189年)右近衛少将に遷る。文治6年(1190年)従四位下に叙せられると、建久6年(1195年)従四位上、建久9年(1198年)正四位下・右近衛権中将と順調に昇進し、建仁2年(1202年)従三位に叙せられて公卿に列した。この間の建久10年(1199年)三左衛門事件により出仕を停められている。元久元年(1204年)正三位に進み、元久3年(1206年)に参議に任ぜられた。
建永2年(1207年)に讃岐権守・左衛門督を兼帯。承元2年(1208年)に検非違使別当に補され、権中納言に任ぜられるが、承元3年(1209年)辞退して従二位に至る。同年按察使に任ぜられるが、翌1210年に出家、同年3月に腫物[1]により薨去した。享年44。