心臓血管外科学 (しんぞうけっかんげかがく、英語 :cardiovascular surgery)とは、心臓 や血管 などを中心に扱う外科学 の一分野である。
欧米では一般に、心臓疾患を扱う「心臓外科学 (cardiac surgery )」と血管疾患を扱う「血管外科学 (vascular surgery )」という2つの分野に分かれている。しかし日本では多くの場合、心臓、大血管、末梢血管を含めて循環器 系統の疾患を対象する統合された外科学領域として心臓血管外科学 としている。また、共に胸部の臓器を扱う心臓外科学と呼吸器外科学 を合わせて胸部外科学 または胸部心臓外科学としていることもある。また、診療科 としては同じ循環器系統の疾患を扱う循環器内科 と共に循環器センターを設置している施設もある[1] 。
心臓外科の歴史
心膜 に対する最初期の手術としては、19世紀にフランシスコ・ロメロ (英語版 ) 、ドミニク=ジャン・ラレー (英語版 ) 、ヘンリー・ダルトン (英語版 ) 、ダニエル・ヘイル・ウィリアムズ (英語版 ) らによって行われた心膜縫合術がある[2] [3] 。また心臓そのものに対する最初の手術は、1895年9月4日にノルウェー の外科医であるアクセル・カペレン (英語版 ) によってクリスチャニア(現在のオスロ )で行われ、左の腋窩 を刺され重度のショック に陥った24歳の男性に対して、左開胸 で出血している冠動脈 を結紮 した。男性は覚醒し、術後24時間は経過良好であったが、最終的には術後第3病日に縦隔 炎で死亡した[4] [5] 。
合併症無く成功裏に行われた最初の心臓手術は、1896年9月7日にドイツ ・フランクフルト の外科医であるルートヴィッヒ・レーン (英語版 ) によって行われた右室 刺創の修復術である[6] [7] 。
大動脈 に対する手術(大動脈縮窄症 修復術、ブラロック・タウジッヒシャント 作成術、動脈管 閉鎖術)は、厳密には心臓自体に対する手術ではないが、20世紀以降より心臓外科領域の手術として一般的になった。
開心術
第二次大戦後より、患者の心臓を切開し直視下に心臓の内部に対して手術操作を行う開心術 が発展していった。トロント大学 の心臓外科医ウィルフレッド・G・ビゲロー (英語版 ) が1950年に発表した全身低体温法[8] をもとに、1952年にF・ジョン・ルイス (英語版 ) らが世界初の開心術として心房中隔欠損症 閉鎖術を行った[9] 。
当時の低体温法を用いた手術では、時間を要する複雑な心内修復術の場合、全身の諸臓器、特に虚血 による低酸素に弱い脳への血液灌流が不足するため、その点において限界があった。そのため患者の心肺機能を人工的に代替する手法が望まれていたが、1953年にジェファーソン医科大学の外科医ジョン・ヘイシャム・ギボン により、最初の人工心肺 を用いた体外循環による開心術が行われた。しかしながら、その後に続く人工心肺による手術成績は芳しいものではなかった。1954年にC・ウォルトン・リレヘイ (英語版 ) により、患者の父親または母親を「人工心肺」として使う交叉循環法 (cross circulation)が発表され[10] 、人工心肺装置による体外循環法は一時断念されたが、その後メイヨー・クリニック のジョン・カークリン (英語版 ) らによりギボン型の人工心肺が改良されて良好な手術成績をおさめたことにより、以後人工心肺は世界中の心臓外科手術で幅広く使用されるようになった。
心拍動下手術
1990年代より、人工心肺 を使用せずに行う冠動脈バイパス術 (CABG)である、人工心肺非使用冠動脈バイパス術(OPCAB: off-pump CABG )が行われるようになった。この場合心臓は拍動させたままで、スタビライザーを使用してターゲットとなる冠動脈の周囲を固定することにより静止状態に近い術野でグラフトを吻合することが可能となる。
血管外科の歴史
血管外科は血管(動脈 ・静脈 )の疾患に対する外科的治療を行う専門領域であり、欧米などでは加えて血管内治療 も含まれることがある。血管外科は一般外科 や心臓外科、および画像下治療 による低侵襲治療の技術を基礎にして発展してきた。
アレクシス・カレル は血管吻合法の基礎を確立し、血管外科の研究に多くの業績を残した[11] 。その他この領域における先駆者として、初期の外科的技術を考案したロシア の外科医であるニコライ・コロトコフ 、低侵襲血管形成術を開発したアメリカ のチャールズ・ドッター (英語版 ) 、そして血管外科の専門領域としての認知度の確立に尽力したオーストラリア のロバート・パトン(Robert Paton)らが挙げられる。
血管外科医の扱う対象は心臓・脳 を除く体の全ての部位の血管に及ぶ。心臓および胸部大動脈までは心臓外科医の扱う領域である[注釈 1] 。また脳動脈瘤など脳血管疾患に関しては脳神経外科 の扱う領域である。
対象疾患
弁膜疾患
冠動脈疾患
不整脈
心膜疾患
心臓腫瘍
先天性心疾患
重症心不全
大動脈疾患
末梢血管疾患
手術術式
心臓血管外科学領域で行われる代表的な手術術式は以下の通り。
成人心臓外科
弁膜症外科
弁形成術
弁輪形成術
弁置換術 (英語版 )
房室弁交連切開術
複合弁手術
冠動脈外科
冠動脈バイパス術 (CABG: coronary artery bypass grafting)
人工心肺使用心停止下 冠動脈バイパス手術(on-pump CABG / CCAB)
人工心肺非使用心拍動下冠動脈バイパス術 (英語版 ) (OPCAB: off-pump CABG)
人工心肺使用心拍動下冠状動脈バイパス手術(on-pump beating CABG)
低侵襲冠動脈バイパス術 (英語版 ) (MIDCAB: Minimally Invasive Direct CABG)
心筋梗塞合併症 手術
不整脈外科
小児心臓外科
心不全外科
大動脈外科
大動脈人工血管置換術
胸部大動脈置換術(上行大動脈・弓部大動脈・下行大動脈)
腹部大動脈置換術
胸腹部大動脈置換術
ステントグラフト内挿術(EVAR (英語版 ) ・TEVAR)
大動脈基部置換術
血管外科(末梢血管)
末梢動脈血行再建術
解剖学的バイパス術
大腿動脈 -膝窩動脈バイパス(F-P bypass)
非解剖学的バイパス術
大腿動脈-大腿動脈バイパス(F-F bypass)
腋窩動脈-大腿動脈バイパス(Ax-F bypass)
末梢静脈血行再建術
静脈ストリッピング (英語版 )
静脈血栓摘除術
内シャント作成術
開心術と非開心術
心臓外科手術は、開心術 と非開心術に大きく分類される。開心術は人工心肺 を使用して体外循環を行いながら心臓を直接切開して行う手術であり、通常は心停止下に心臓内部の手術操作を行う。一方、非開心術は人工心肺を使用せず、心拍動下に手術を行う方法である。
開心術 の詳細については同項目を参照。
周術期管理
本項目では一般的な外科系手術の周術期管理と比較して、心臓血管外科手術において特に留意すべき点を中心に述べる[12] 。
術前管理
冠動脈バイパス術で体外循環を使用しない予定の場合なども含めて、常に体外循環を用いるという想定のもとに術前検査を行う必要がある。具体的には以下の様な項目を中心に術前検査を行うが、ヘマトクリット や血小板 の値によって輸血 準備の量を検討する。そして心機能・呼吸機能とともに、肝機能・腎機能の評価も行い、臓器不全のリスクを評価する。大動脈遮断予定部位や送脱血管挿入予定部位の血管の石灰化 、血管径の確認も必須である。
一般検査: 血算 ,生化学 ,凝固機能 ,動脈血ガス分析 ,等
心機能・循環動態の評価: 胸部X線 検査,心電図 ,心臓超音波検査 ,心臓カテーテル検査 (冠動脈造影,左室造影,等),心筋シンチグラフィー
中枢神経系の評価: 頭部CT ,頚部血管エコー ,頭頸部MRA
大動脈遮断部位,送脱血部位の評価,: 胸腹部CT
術中管理
心臓手術の術中管理は循環器系・呼吸器系の管理が中心となる。術中に必要なモニターのうち代表的なものを下に記す。体血圧は撓骨動脈圧をモニターすることが多いが、その他大腿動脈 圧なども使用される[注釈 2] 。動脈圧ラインからは適宜動脈血ガス分析を行う。肺動脈カテーテル (スワンガンツカテーテル®)心拍出量、肺動脈圧など様々なパラメーターを測定出来る。パルスオキシメーター により酸素飽和度の変化を迅速に知ることが出来る。経食道心エコーは術中の心機能の評価、体外循環離脱時の心腔内の空気の有無の評価などに用いる。ダイレクトエコーは上行大動脈の送血管の位置や遮断が可能かどうかの検討のために術者が術野で直接施行する。ダイレクトエコー以外のモニター・検査は麻酔科 医が行うが、術中の術者との密な意思疎通に基づいた管理が重要である。
心電図
血圧: 非侵襲的血圧測定(NIBP),観血的動脈圧測定(ABP)
スワンガンツカテーテル: 心拍出量(CO),中心静脈圧(CVP),肺動脈 圧(PAP),右房 圧(RAP),肺動脈楔入圧(PCWP),混合静脈血酸素飽和度 (SvO2),等
経皮酸素飽和度 (SpO2)
経食道心エコー
深部体温: 直腸温,膀胱温
ダイレクトエコー(術者が行う)
術後管理
術後のICU ないしCCUでの代表的なモニタリング項目は下に記した通りで、概ね手術室と同様である。術直後数時間から1~2日の間は呼吸循環動態が不安定になりやすいため、変化に即応した厳密な管理が必要である。また、深鎮静・挿管 下に手術室からICUに入室するか、手術室で覚醒・抜管してからICUに入室するかで管理は大きく変わる。前者の場合は鎮静剤 や麻薬 を用いて人工呼吸 管理を行い、覚醒のタイミングを図ることになる。
心電図モニター
血圧: NIBP,ABP,CVP
スワンガンツカテーテル
SpO2
深部体温
輸液管理
人工心肺を使用した開心術における術中・術後には全体の水分量は著明に増加していることが多く、また抗利尿ホルモン の活性化や副腎皮質ホルモン の分泌増加などの影響でナトリウム の貯留とカリウム の喪失が起こるため、術後早期は特に水分管理・カリウムの管理が重要であり、前負荷 の軽減のために一般的にはマイナスバランスを保つ必要がある。上記のモニタリング項目を参考にしながら、輸液、輸血、強心剤 の調整する。
低心拍出量症候群
スワンガンツカテーテルにより測定した心係数 (CI)の低下は低心拍出量症候群 (英 : Low cardiac output syndrome 、LOS )を示す重要な所見である。LOSの徴候を認める場合、まずは出血 などの手術による合併症に対して対処を行う。また術前より使用しているβブロッカー の影響や内因性因子で徐脈 になることもあり、必要に応じて心房ペーシング や心室ペーシングで管理する。低血圧 時にはPCWPが低ければ容量負荷を行い、高ければドパミン などのカテコラミン を使用し(場合によりドブタミン やアドレナリン も考慮する)、血圧が上昇し始めたら少量の血管拡張薬 を使用する。正常血圧でPCWP、PAP、RAPが高い時はニトログリセリン やミルリノン などの血管拡張薬を使用する。
出血
心臓外科手術を受ける患者は術前に抗凝固 療法を受けていることが多く、また体外循環を用いる手術が多いため、術後の凝固機能に異常が見られることがある。ヘパリン の影響による凝固機能異常に対してはプロタミン で対処し、血小板 減少に対しては必要に応じ血小板輸血を行う。ドレーンからの出血量によっては止血再開胸を考慮する必要がある。逆にドレーンの排液が少ない時でも凝血塊でドレーンが閉塞して心タンポナーデ に陥ることがあり、頻脈 ・低血圧・SvO2の低下などが見られタンポナーデと判断されたら躊躇せず速やかに再開胸止血術を行う。
循環サポート
術後に心機能の抑制が見られる時には心臓の収縮力を高めるために各種の循環作動薬を使用する。カテコラミンにはアドレナリン ・ノルアドレナリン ・ドパミン ・ドブタミン 等、また非カテコラミンではカルシウム 製剤・ジゴキシン ・アムリノン ・ミルリノン等があり、これらを状況に応じ使用する。薬剤を使用してもCI 2.0L/min/m2 以下が持続する時には大動脈内バルーンパンピング を使用することにより、拡張期の冠血流量を増大させ(diastolic augmentation)、収縮期圧負荷を減弱させる(systolic unloading)。
呼吸管理
挿管鎮静下にICUに入室した場合、覚醒が十分で動脈ガスデータが適切な範囲にあることを確認したら人工呼吸器 からの離脱を開始する。但し血行動態が不安定であったり、未だ術後の出血が続いており再開胸の可能性が残っている時は安定するまで鎮静・人工呼吸管理を継続する。喀痰 排出困難な時にはトラヘルパーやミニトラックなども使用し、長期の呼吸管理が必要になる時は気管切開 も考慮する。
専門医制度
日本での心臓血管外科領域における一定水準の知識・技量を認定する専門医 資格として、心臓血管外科専門医 の制度が設置されている。
日本胸部外科学会 ・日本心臓血管外科学会・日本血管外科学会からなる3学会構成心臓血管外科専門医認定機構により、経験手術症例、論文・学会発表等の業績などに基づいて資格認定の審査が行われている。心臓血管外科専門医取得の条件の一つとして「外科専門医 であること」が要求されているため、心臓血管外科医を志す若手医師は、初期研修 終了後に消化器外科 ・呼吸器外科 ・乳腺 外科といった一般外科 の経験を2-3年程度積むことが必須となる。
心臓血管外科手術データベース
心臓血管外科領域における手術リスクの評価に用いることの出来る臨床データベース に基づいたリスク解析モデルとして、EuroSCORE (英語版 ) やSTS scoreなど様々なものが存在する。日本では20世紀まで心臓血管外科手術の全国規模でのリスク調査がなされていなかったが、2000年に日本成人心臓血管外科手術データベース(JACVSD )が発足し、翌年より実際にインターネットを介してデータ入力が開始。2007年10月よりデータ解析機能(JapanSCORE )が設置された[13] [14] 。小児心臓外科においても同様に、日本先天性心臓血管外科手術データベース(JCCVSD )が構築されている。
脚注
注釈
^ 実際には大動脈疾患は心臓外科と血管外科が一部オーバーラップする領域となっているが、横隔膜 の上下(胸部と腹部大動脈)で分けられることが多い。
^ この場合IABP(大動脈内バルーンパンピング)を緊急で挿入する必要がある場合にも即座に対応できる。
出典
^ 昭和大学横浜市北部病院 循環器センター
^ Aris A (September 1997). “Francisco Romero the first heart surgeon” . Ann. Thorac. Surg. 64 (3): 870–1. doi :10.1016/S0003-4975(97)00760-1 . PMID 9307502 . http://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0003497597007601 .
^ “Pioneers in Academic Surgery ”. U.S. National Library of Medicine. 2014年6月10日 閲覧。
^ Westaby, Stephen; Bosher, Cecil. Landmarks in Cardiac Surgery . ISBN 1-899066-54-3
^ Baksaas ST, Solberg S (January 2003). “Verdens første hjerteoperasjon” . Tidsskr Nor Lægeforen 123 (2): 202–4. http://www.tidsskriftet.no/?seks_id=659174 .
^ Absolon KB, Naficy MA (2002). First successful cardiac operation in a human, 1896: a documentation: the life, the times, and the work of Ludwig Rehn (1849–1930) . Rockville, MD : Kabel, 2002
^ Johnson SL (1970). History of Cardiac Surgery, 1896–1955 . Baltimore: Johns Hopkins Press. p. 5.
^ W. G. Bigelow, et al., General Hypothermia for Experimental Intracardiac Surgery: The Use of Electrophrenic Respirations, an Artificial Pacemaker for Cardiac Standstill, and Radio-Frequency Rewarming in General Hypothermia, Ann Surg. 1950 September; 132(3): 531–537.
^ Lewis FJ, Taufic M. Closure of atrial septal defects with aid of hypothermia: experimental accomplishments and the report of one successful case. Surgery. 1953; 33: 52–59.
^ Dr. C. Walton Lillehei (Vincent L. Gott, M.D. Johns Hopkins Medical Institutions.Baltimore, MD)
^ 日本心臓血管外科学会 わが国における血管外科 1.血管外科の歴史
^ 龍野勝彦 他.『心臓血管外科テキスト』.中外医学社.pp25-36.ISBN 978-4-498-03910-0
^ 梅原 伸大, 齊藤 聡, 津久井 宏行, 山崎 健二. JapanSCOREの有用性の検討 — Logistic EuroSCOREとの比較を含めて. 日本心臓血管外科学会雑誌 Vol.42 (2013) No.2 p.94-102
^ JACVSDパンフレット 2013年2月発行 (PDF )
関連項目
外部リンク