弘石 雅和(ひろいし まさかず、1966年8月10日 - )は日本の音楽プロデューサー。ユーマ株式会社/株式会社Pinc代表取締役。
略歴
人物・その他エピソード
- 大学時代にはテクノ、パンク、ヒップホップなど4つのバンドを掛け持ちし、GINGER BOYSというバンドで三宅裕司のいかすバンド天国に出場した。[2]
- 吉祥寺のレンタルレコード店SHOP33のアルバイト時代には、後にパリコレやロンドンコレクションにも参加するファッションブランドTOGAやJURIUS、当時ヒロポンファクトリー名義で活動中の村上隆や映画『AKIRA (アニメ映画)』作画監督の森本晃司 (アニメーター)といったアーティストとの交流があった。
- 1990年の大学卒業後には心酔するイエロー・マジック・オーケストラを生み出したアルファレコードに入社。洋楽部にてUKのBeggars BanquetやDepeche ModeがいたMute Records、JIVEなどダンスミュージックのプロモーションを担当した。
- 1994年にソニー・ミュージックエンタテインメントに転職し、海外のテクノミュージックを日本で浸透させると同時に、日本のテクノ系アーティストを育てるディレクターとして活躍。ワープレコード、R&Sレコーズなどの作品リリースや、ケン・イシイ、BOOM BOOM SATELLITESなどを担当し、電気グルーヴの海外戦略にも携わる。7年間で200タイトルをリリースした。
- 一番印象に残る仕事として、映画『AKIRA』作画監督の森本浩司に制作を依頼したケン・イシイのMVが大ヒットしたこと。最も売れた作品は、映画『トレイン・スポッティング』に使用されJ-WAVEでパワープレイとなった、UNDERWORLDのBorn Slippyと述べている。[3]
- 1997年にベルギーの R&Sレコーズとのジョイント・ベンチャーがスタートし、ゲントにあるR&Sレコーズへ出向するも、両社の経営方針の違いから契約が見直された結果、1年後に帰国となる。[4]
- ベルギーからの帰国後すぐにロンドンにて、SHOP33時代からの友人でもあるBOOM BOOM SATELLITESのファーストアルバム制作やワープレコードの業務に携わった。
- 2001年、ソニー・ミュージックエンタテインメントを退社し、ガイ・マクリーリと共にクラブミュージック専門のレコード会社Third-Earをロンドンと渋谷を拠点に設立した。[5]
- スペイン・バルセロナの音楽イベントSónarをSónar Sound Tokyo 2002として都内で開催した。[6]
- 渋谷にあったクラブ「セコ・バー」でYMOの細野晴臣と高橋幸宏によるスケッチ・ショウのシークレット・ライブをセッティングした縁から、バルセロナのSónar2003とロンドンのサイバーソニカ・フェスティヴァル2003にスケッチ・ショウをブッキングし、取り仕切った。[7]
- 2004年には坂本龍一も参加し、Human Audio Sponge(HAS)というユニット名で、1993年のYMO再生ライブ以来11年振りとなる3人でのライブをバルセロナのSónar2004およびSónar Sound Tokyo 2004にて実現した。
- 2007年、YMOの曲を初音ミクでカヴァーした『Hatsune Miku Orchestra』(HMOとかの中の人。)をThird-Ear Japanよりリリース。ボーカロイドという新たなムーブメントの気配を感じ取ったことをきっかけに、2010年にThird-Ear Japanの株式を買い取る形で独立した。
- DECO*27やsasakure.UKといった新世代のアーティストとの出会いもあり、アニメやゲームなど、さらに幅広いフィールドに音楽を繋げていきたいという意味で社名をU/M/A/A Inc., United Music and Artists(ユーマ株式会社)に変更した。
- 2023年、アーティストのルー・ビーチ氏が、YMO世界デビュー時のワールドワイド版ファースト・アルバムのジャケットとして作成したアートワークを洋金箔の上に施した、NFT証明書付き作品「TechnoByobu(テクノ屏風)」を発売。[8]
脚注
外部リンク