山崎 義徳(やまざき よしのり)は、江戸時代中期の交代寄合表向御礼衆。備中国成羽領8代領主。[1]
明和6年(1769年)6月23日 、備中国成羽領5代領主山崎義俊の四男として成羽で生まれる。母は義俊の側室。正室は豊後国日出藩10代藩主木下俊胤の娘。この婚姻関係により日出藩11代藩主木下俊懋、越後村松藩7代藩主堀直方らと義兄弟の関係となった。また、父方の従弟に豊後国森藩8代藩主久留島通嘉がいる。なお、木下家と山崎家は遠縁に当たる。木下俊胤の岳父木下俊泰の妹が、義徳の祖父に当たる森藩5代藩主久留島光通の正室であり、祖母に当たる。木下家とは縁が深く、木下勝俊の娘智光院が山崎家の祖山崎家治の継室として嫁ぎ、成羽領初代領主山崎豊治が出生している。
天明元年(1781年)7月26日、次兄義苗が急逝したことに伴い、同年9月11日に成羽領5,000石の家督を相続した。天明8年(1788年)9月1日、徳川家斉に拝謁。続けて寛政元年(1789年)6月21日、幕府の許可を得て成羽へのお国入りを果たす。領主在任中は輪王寺日光門主の上京の付添を命じられるなど、幕府御用を勤めている。文化10年(1813年)12月20日、江戸にて死去した。享年は45歳。長男義尊は早世していたため、次男義高が家督である成羽領5,000石を相続した[2]。