小鷹 信光(こだか のぶみつ、1936年8月26日 - 2015年12月8日[1][2])は、日本のハードボイルドを中心としたミステリ評論家、翻訳家、アンソロジスト、小説家、アメリカ文化研究者。
名和 立行名義も使用した。本名・中島信也。
日本推理作家協会、日本冒険作家クラブ、マルタの鷹協会日本支部[3]、アメリカ探偵作家クラブ[3]、アメリカ私立探偵作家クラブ[3] 各会員。
1936年、岐阜県高山市で生まれる。ただし、両親とも富山生まれで、小鷹の兄と弟も富山で生まれている。次男の小鷹だけは父が勤務していた銀行の高山支店勤務中に生まれた[4] ものの、2008年に行われた片岡義男との対談[5] では「家族五人と富山から上京してきて建売住宅に入った」「私の田舎は富山なんだけど、荷物を送ったら空襲で丸焼けになった」などと語っており、出身は富山という認識だったことがうかがえる。
1957年、早稲田大学第一文学部英文科入学。ワセダミステリクラブに所属し、在学中から評論活動を開始する。中世英文学を専門とする三浦修教授のゼミに所属していたが、卒業論文は現代アメリカの非行少年小説をテーマにしたもので、ワセダミステリクラブの会誌『フェニックス』に連載していた評論をまとめたものを提出して、なんとか及第点をもらったという。
1961年、医学書院に入社。編集者として勤務する傍ら、雑誌『マンハント』にコラムや翻訳を寄稿するようになる[注 1]。また、パロディ創作集団「パロディ・ギャング」を水野良太郎、広瀬正、伊藤典夫、豊田有恒、片岡義男、しとう・きねおらと結成して活動する。
1967年、独立。以後、多くの海外ハードボイルド作品を日本に紹介、自ら翻訳している。日本のハードボイルド史に残した功績は大きく、真保裕一は「ハードボイルドのファンを自認する者で小鷹の名を知らない者がいるとすれば、それは知ったかぶりのモグリか初心者だ」と語っている[7]。2007年には自伝的著作『私のハードボイルド』で日本推理作家協会賞を受賞。また、「ミステリマガジン」に連載されたコラム『パパイラスの舟』シリーズは、ハードボイルドにとどまらず、海外ミステリ全般を論じた名評論とされている。
テレビドラマ『探偵物語』の原案者としても知られる。番組には企画段階から関り、ワセダミステリクラブ以来の旧友であるプロデューサーの山口剛に頼まれて企画書の元となる企画原案も執筆[注 2]、小説版も手掛け、さらに撮影現場にも一度足を運ぶという熱の入れようだった。また、劇中においても主人公・工藤俊作(松田優作)がアドリブでカメラに向かって「日本のハードボイルドの夜明けはいつ来るんでしょうかね、小鷹信光さん」と問いかける一幕があった[8]。
趣味はゴルフで、ゴルフに関するエッセイや、ゴルフ・ミステリの翻訳、タイガー・ウッズについての本の翻訳などにも携わった。
長女は作家・詩人のほしおさなえである(さなえの夫は批評家東浩紀)[1]。
2013年には1万点を超えるペイパーバック・コレクションを「公益財団法人早川清文学振興財団」に寄贈し、「小鷹信光文庫 ヴィンテージペイパーバックス」として公開。
2015年12月8日、膵臓癌により死去[1][2]。79歳没。
2016年3月29日、明治記念館において「小鷹信光(中島信也)さんを偲ぶ会」が行われ、祭壇には遺影とともに「日本のハードボイルドの夜明けはいつ来るんでしょうかね、小鷹信光さん」という上述の台詞が掲げられた[9]。