小原 義之(おばら よしゆき、1971年8月27日 - )は、滋賀県出身の現調教助手・元騎手。
騎手免許は平地・障害両方の免許を所持していたが、障害での騎乗経験はなかった。
1990年3月3日に栗東・増本豊厩舎からデビューし、中京第1競走アラブ4歳以上400万下・アップワン(13頭中8着)で初騎乗を果たすと、同日の第5競走4歳以上500万下をルイテイトで逃げ切って初勝利を挙げた。夏は北海道シリーズに参戦し、札幌記念・イチアヤヒデ(14頭中11着)で重賞初騎乗を果たすと、セイユウ記念ではハクサンツバメで2着に逃げ粘った。5月19日の阪神では初の1日2勝、10月13日の京都では初の1日3勝、12月15日と翌16日の京都では初の2日連続勝利を挙げる。1年目の1990年から2桁の23勝をマークするが、20勝台は同年が唯一でキャリアハイとなった。
1993年まで4年連続2桁勝利を記録し、同年からはフリーとなり、ホクセイアンバーと共にローカルの中長距離戦で活躍。昇級2戦目の明石特別(900万下)を8馬身差で圧勝すると、夏は札幌で降級初戦の支笏湖特別(900万下)を2馬身差で快勝。続く札幌記念は7着、小倉記念では6着に敗れる。小倉記念は勝負所の不利が大きく、続く朝日チャレンジカップ4着で、重賞でも好勝負できる能力があることを証明[1]。1994年の小倉記念では「無理せず中団から」という指示を父・小原伊佐美調教師から受け、落ち着いた騎乗振りで指示通りに中団を追走。3コーナーでうまく内に入ると、勝負所を迎えて反応が鈍くなりかけたホクセイアンバーを叱咤激励して直線へと入る[1]。最内にホクセイアンバー、中にメモリータイヨウ、外にイブキファイブワンの激しい追い比べとなり、ホクセイアンバーは態勢的に苦しくなるが、馬体を併せてからの強さという真骨頂を見せる[1]。イブキファイブワンも最後まで懸命に追いすがったが、ホクセイアンバーがアタマ差のリードを守り切り、人馬共に重賞初制覇を飾る。小原はホクセイアンバーの勝負根性を信じ、落ち着いた騎乗で直線の叩き合いをしのぎ切った[1]。
1996年からは小原厩舎所属となり、札幌記念ではダイタクサージャンでマーベラスサンデー・マイヨジョンヌに次ぐ3着に入るが、同年唯一の重賞騎乗となった。1997年から2001年には5年連続2桁勝利を記録し、1997年には5月19日の笠松第8競走初夏特別・ダイゴパワー(10頭中9着)て地方初騎乗を果たす。9月14日の札幌第6競走4歳以上500万下をミカマンリーで逃げ切り、中央通算100勝を達成。1998年のウインターステークスでは9頭中8番人気のウッディーナイスでマチカネワラウカド・エムアイブランに次ぐ3着に入り、1999年にはダイヤモンドステークスをタマモイナズマで逃げ切って5年ぶりの重賞制覇を飾ると、同年の天皇賞(春)でGI初騎乗を果たす。2001年には5月9日の名古屋第10競走名古屋チャレンジカップジュピター賞・ユーコーフォエバーで地方初勝利を挙げ、同じく父・伊佐美もこの競走で管理馬の地方初勝利を挙げた。京都大賞典ではホワイトハピネスでステイゴールド失格による繰り上がりで3着となり、同年の11勝が自身最後の2桁となった。2002年には小倉大賞典を13番人気のタマモヒビキで3年ぶりの重賞制覇を飾り、札幌2歳ステークスではテイエムリキサンでサクラプレジデントに3/4差迫る2着とした。
2002年からは1桁台が続き、2008年にはマーチステークスをナナヨーヒマワリで制して6年ぶりの重賞制覇を飾るが、小原親子にとって最後の重賞制覇となった。2008年11月23日の京都第5競走メイクデビュー京都2歳新馬でサイタに騎乗するが、レース中に転倒したセイウンアレースに接触して落馬[2]。サイタの後ろを走っていたリベラルランスルーに蹴られ、その後の診断で肝損傷・肺挫傷の重傷を負った[2]。約1か月の入院[3]を経て調教騎乗に復帰すると、2009年1月11日から1鞍限定でレースへの騎乗を再開し、驚異の回復力を見せた[4]。3月28日の阪神第1競走3歳未勝利を15頭中10番人気のマルサンメインで逃げ切って199勝目を挙げ、中央通算200勝に王手をかけるも、結局これが最後の勝利となった。6月2日から同24日にかけては研修でイギリス、アイルランドに行ったが[5]、11月1日の京都第10競走西陣ステークス・アートオブウォー(16頭中5着)を最後に騎乗もなくなり、12月20日をもって現役を引退。
引退後は小原厩舎の調教助手に転身し、2014年には伊佐美の勇退により、新たに開業した石橋守厩舎に移籍。芹沢純一と共に調教専門の調教助手を務めている[6]。