宮沢 正史(みやざわ まさし、1978年4月24日 - )は、山梨県出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(主にボランチ[5])。現中央大学学友会サッカー部監督[6]。
小学3年生(8歳[2])時にサッカーを始める[7]。帝京第三高等学校を経て、1997年に中央大学に進学。同大学のサッカー部に所属し、関東大学リーグのベストイレブンに3年連続で選出されるなど活躍した[8]。3年時には1999年夏季ユニバーシアードに出場[9]。
2001年にFC東京に入団[4]。加入当初は2列目の選手としてプレーしており、フィジカル面での課題があったこと[4]などからトップでの出場機会が少なかったが、翌2002年に原博実が監督に就任すると「(キックの)フォームが誰よりも綺麗」と[10] ボランチのレギュラーに抜擢され、同年のJリーグ優秀新人賞を受賞するなど活躍[11][12]。特にコーナーキックやフリーキックなどセットプレー時に宮沢が蹴るボールはFC東京の得点源となった[7]。また中盤下がり目の位置からの攻撃の第一歩となるロングパス[7][13]、サイドチェンジの正確なボールを蹴る点も大きな特徴であり[14][13]、原の目指す両サイドをワイドに使ったサッカーに欠かせない選手に成長した[11]。2004年以降は今野泰幸や梶山陽平の台頭により控えに回ることが多くなっていた[11][13]。 また、2002年、2003年にはJリーグ選手協会支部代表[15] を、2004年には同支部長を務めた[16]。
2007年、出場機会を求め大分トリニータへ完全移籍[8][17]。開幕時こそスターティングメンバーだったものの、連係がうまくいかなかったことなどからボランチの先発を外れ、一時は左ウイングバックに配された。シーズン途中からボランチにエジミウソン及びホベルトが補強されて以降はベンチ入りも出来ずにいた[18]。2008年は1年間の期限付きでベガルタ仙台へ移籍していたが[19]、左サイドのバックアッパーとしての加入だったこともあり[5]、公式戦3試合のみの出場にとどまった。
2009年より大分へ復帰[20]。2010年からはチームのJ2降格等の影響で多くの主力選手が退団した中、スタメンに再抜擢された。またこの年に日本サッカー協会公認B級コーチライセンスを取得している[21]。2011年からは最年長選手としてチーム主将に就任し、2013年まで計3シーズン務めた[22]。監督の田坂和昭からは、展開力を持つものの守備は弱いとされてきたが、その改善に取り組み、さらにオフ・ザ・ボールのポジショニングにも向上を見せていると評価された[1]。2013年は4年ぶりのJ1でのプレーとなったが、ロドリゴ・マンシャや梶山陽平の加入の影響等によりボランチのポジション争いが激化し[23]、出場機会は前年と比べ減少。先発を外れる試合も少なくなかったが[24]、精神的支柱として[23]心を砕き[24]懸命にチームをまとめた[22]。J2降格が決定した第29節以降はスタメンの座を奪い返すも、同年をもって契約満了により大分を退団[25]。
2014年、積極補強を図るFC岐阜から中盤の司令塔として[26] オファーを受け、同クラブへ移籍[27][28]。中盤底から多彩なパスを供給し[29] 先発に定着した。
2015年シーズン中盤から特別指定選手の青木翼らにスタメンを譲り、同年限りで現役を引退[30]。2016年より、古巣・FC東京のスカウティングスタッフに就任。
2017年9月、安間貴義の暫定監督就任に伴い、トップチームコーチに就任した[31]
2021年1月7日、中央大学サッカー部監督に就任することが発表された。
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