宝木村(ほうぎそん)は、鳥取県気高郡にあった自治体である。1896年(明治29年)3月31日までは気多郡の最東部に位置した。
概要
現在の鳥取市気高町宝木・気高町冨吉・気高町奥沢見・気高町常松・気高町上光・気高町下光元に相当する。河内川下流域に位置し、北は日本海に面した。
藩政時代には鳥取藩領の気多郡母木庄(ほうぎのしょう)に属する母木村・新町村・奥沢見村(又は大沢見村、枝郷に溝後村があり)・富吉村・常松村があった[1]。
母木村には近世初頭に伯耆街道の宿場が置かれていたが、後に分村した新町村に宿駅機能の多くがあったことから新町村が宿場を引き継いだ(ただし幕末まで母木宿と呼ばれた)[3]。
沿革
行政
戸長
- 宝木宿外11ヶ村連合戸長役場:伊奈正之[8]
- 管轄区域:宝木宿・富吉村・奥沢見村・常松村(後の宝木村)、上光村・下光元村(後の光元村)、宿村・土居村・重高村・二本木村・下坂本村(後の瑞穂村の一部)、酒津村[9]
歴代村長
宝木村光元村組合村長
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
|
初 |
木下昇一 |
1889年(明治22年)12月26日 |
1893年(明治26年)12月25日 |
|
2 |
木下昇一 |
1893年(明治26年)12月25日 |
1897年(明治30年)12月24日 |
|
3 |
木下昇一 |
1897年(明治30年)12月24日 |
1901年(明治34年)12月23日 |
|
4 |
木下昇一 |
1901年(明治34年)12月25日 |
1905年(明治38年)3月5日 |
家事都合
|
5 |
初田晴蔵 |
1905年(明治38年)3月22日 |
1906年(明治39年)11月9日 |
家事都合
|
6 |
木下昇一 |
1906年(明治39年)11月16日 |
1910年(明治43年)11月15日 |
|
7 |
木下昇一 |
1910年(明治43年)11月21日 |
1914年(大正3年)1月31日 |
|
参考文献 - [1]
|
宝木村長
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
|
初 |
木下昇一 |
1914年(大正3年)2月1日 |
1914年(大正3年)4月22日 |
|
2 |
木下昇一 |
1914年(大正3年)4月22日 |
1918年(大正7年)4月21日 |
|
3 |
木下昇一 |
1918年(大正7年)4月22日 |
1920年(大正9年)9月27日 |
死亡
|
4 |
新忠蔵 |
1920年(大正9年)10月23日 |
1924年(大正13年)10月22日 |
|
5 |
新忠蔵 |
1924年(大正13年)10月23日 |
1928年(昭和3年)10月23日 |
|
6 |
新忠蔵 |
1928年(昭和3年)10月23日 |
1932年(昭和7年)10月22日 |
|
7 |
和田定七 |
1932年(昭和7年)10月23日 |
1936年(昭和11年)10月22日 |
|
8 |
和田定七 |
1936年(昭和11年)12月3日 |
1937年(昭和12年)4月3日 |
家事都合
|
9 |
谷川保夫 |
1937年(昭和12年)5月15日 |
1938年(昭和13年)1月4日 |
老年
|
10 |
谷川寿夫 |
1938年(昭和13年)1月14日 |
1942年(昭和17年)1月13日 |
|
11 |
谷川寿夫 |
1942年(昭和17年)1月15日 |
1946年(昭和21年)1月14日 |
|
12 |
谷川寿夫 |
1946年(昭和21年)1月15日 |
1946年(昭和21年)10月30日 |
辞職
|
13 |
和田幸太郎 |
1947年(昭和22年)4月8日 |
1948年(昭和23年)5月19日 |
一身上の都合
|
14 |
竹本武 |
1948年(昭和23年)6月26日 |
1951年(昭和26年)9月18日 |
解職投票
|
15 |
松本義久 |
1951年(昭和26年)10月27日 |
1955年(昭和30年)6月30日 |
|
参考文献 - [1]
|
教育
- 宝木村立宝木小学校(現・鳥取市立宝木小学校)[1]
- 瑞穂・酒津・宝木組合立気高中学校:1947年(昭和22年)4月1日に宝木村大字宝木1156番地の旧山東青年学校内に創設[1]。
- 宝木村立宝木中学校:1948年(昭和23年)4月1日に宝木村が組合立を離脱して創設。気高町発足後の1956年(昭和31年)4月1日に旧気高中学校と合併。現在は鳥取市立気高中学校[1]。
交通
鉄道
道路
脚注
関連項目