奥中 惇夫(おくなか あつを[1]、1930年9月28日[2][3][4] - 2012年2月17日[4])は、日本の映画監督。奈良県奈良市出身[2][4]。
来歴
東京大学文学部美学美術史学科卒業[2][3][4]。1953年に新東宝に助監督として入社[2][5][3][4]。渡辺邦男に師事した後、1961年に東映東京撮影所の助監督契約をする[4]。1963年に東映テレビプロに移籍[5][3][4]。1964年の『鉄道公安36号』で監督デビュー[2][5][3][4][6]。『特別機動捜査隊』などを演出したのち、1967年よりフリーとなる[4]。1969年、自ら希望して『柔道一直線』に途中参加、最終的に40話分を監督した[3]。『仮面ライダー』への参加以後、キャラクター作品を中心に活躍した[3][4]。
1972年、日本映画監督協会理事に就任[4]。
1986年、新東宝の助監督仲間だった青野暉の紹介で第二院クラブに参加し、第14回参議院議員通常選挙に立候補した[4]。
晩年は、自動車事故により長期の療養生活を行っていた[4]。
2012年2月17日午前0時20分、埼玉県和光市の病院で心不全のため死去、81歳[4][7]。
人物・エピソード
俳優の中庸助は旧制中学時代の同級生である[3]。東映プロデューサーの平山亨は大学時代の同級生であったが、在学時は面識はなく奥中が東映作品に参加してから知り合った[3]。
旧制中学3年生の時に柔道部主将を務めていた[5][3]。映画・テレビドラマ監督として富田常雄原作作品を多く手掛けているが、この頃にも富田の小説『姿三四郎』を愛読して技の真似をしていたという[5]。『柔道一直線』は作品を観てスタッフが柔道のことを知らないと感じ、自ら志願して参加した[5]。
『仮面ライダー』へは、当初『柔道一直線』からの流れでそのまま参加する予定であったが、平山からの要請でテレビドラマ『太陽の恋人』を担当することとなった[3][4]。その後も『刑事くん』や『熱血猿飛佐助』を歴任したため、『仮面ライダー』への参加は終盤になってからであった[3][4]。『熱血猿飛佐助』では視聴率の悪さからクビになったといい、東映生田スタジオ所長の内田有作に声をかけられ、参加に至った[3]。
『仮面ライダーV3』『ロボット刑事』を担当した後、自身の守備範囲を広げるために東映作品を一時離れた[3]。その後は時代劇・青春もの・昼メロと多岐に渡り活動したが、ピー・プロダクションの特撮テレビ番組『電人ザボーガー』を担当していた時に東映の渡邊亮徳から「他社で似たようなものを撮っているなら、うち(東映)でやったらいい」と言われ、『がんばれ!!ロボコン』で東映作品に復帰した[3]。
プロデューサーでは平山亨、阿部征司と組むことが多かった。
監督作品
業務、教育用作品
- 工務店商談の話法(1989年)
- 俳聖芭蕉は隠密か?(1989年)
- 日本で観る世界の名画(1989年)
- 絵画散歩(1993年)
- ふるさと歩道(1996年)
- 北の国(ふるさと)へ〜仙台育英学園創始者加藤利吉物語〜(教育用ビデオドラマ・1996年)
著書
- テレビ映画監督一代記 仮面ライダーがエントツの上に立った日(2004年、筑摩書房)
- ほえろ!ライオン先生(仙台育英学園教育振興会)
脚注
参考文献