大竹英雄 名誉碁聖 |
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名前 |
大竹英雄 |
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生年月日 |
(1942-05-12) 1942年5月12日(82歳) |
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プロ入り年 |
1956年 |
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出身地 |
福岡県北九州市 |
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所属 |
日本棋院東京本院 |
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師匠 |
木谷實 |
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名誉称号 |
名誉碁聖 |
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概要 |
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タイトル獲得合計 |
48 |
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通算成績 |
1319勝846敗5持碁1無勝負 |
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七大タイトル |
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棋聖 |
挑戦者 (1981・90) |
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名人 |
4期 (1975-76・78-79) |
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本因坊 |
挑戦者 (1988) |
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王座 |
1期 (1975) |
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碁聖 |
7期 (1978・80-85) |
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十段 |
5期 (1969・80-81・93-94) |
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大竹 英雄(おおたけ ひでお、1942年(昭和17年)5月12日 - )は、2021年に引退した囲碁棋士。名誉碁聖。福岡県北九州市出身、日本棋院所東京本院所属、木谷實九段門下、九段。
碁聖位6連覇、名人位4期、世界囲碁選手権富士通杯優勝など。
厚く味のよい形を好む本格的な棋風で大器、大竹美学と呼ばれる。布石では小目を好む。またNHK杯優勝5回など早碁を得意とし「早碁の神様」、名人戦では挑戦手合通算12回出場などで「名人戦男」などのニックネームを持つ。同年同月生まれでライバルでもある林海峰と並んで"竹林"とも称される。
通算タイトル獲得数は48[1]。門下に西村慶二八段。木谷門下の塾頭格として、後輩の指導などでも評価が高い。
2008年12月9日 - 2012年6月26日は日本棋院理事長、同日から2020年6月22日は日本棋院顧問。2010年から全日本囲碁連合の会長も務めた。日本棋院の新旧タイトル保持者で作る名棋会の会長でもある。
現在、存命の名誉称号資格者・三大タイトル獲得経験者・碁聖位獲得者・十段位獲得者では林海峰名誉天元と並び最年長である[2]。
経歴
1942年(昭和17年)5月12日福岡県八幡市(現在の北九州市八幡東区)に7人兄弟の4番目として生まれる。父は八幡製鐵所に努めていた。3歳の時に八幡空襲に遭う。家が焼けてしまったので隣の戸畑に引っ越す。喧嘩ばかりしていた腕白坊主であだなが「豆雷電」だった。アマ三段の父親が製鉄所の囲碁クラブの幹事をしており、その縁で小学2年の時に八幡の碁会所に通いだす。負けると大泣きしていたが日々強くなり、10か月ほどでアマ三・四段となる。この頃は碁会所の先生に手製の詰碁カードを作ってもらっていた[3]。9際の時にはすでに大竹の強さが評判となり西日本新聞に取り上げられるほどだった[4]。
1951年12月6日、9歳のときに、福岡県柳川市で行われた呉清源と藤沢庫之助の対局の立ち会い人として来ていた木谷實と懇意にしていた高田工業社長・高田寿夫の紹介で九子で試験碁を打つ[4]。大敗したものの認められ、その月の17日に兄弟子の筒井勝美(現六段)とともに上京し木谷門下に入門。戸沢昭宣(現九段)に続く内弟子二号だった。翌年日本棋院院生となる。当時の院生師範は杉内雅男だった。1956年入段。同期に戸沢昭宣・木谷禮子・本田光子(現姓・楠)。初対局は姉弟子の本田幸子。デビューから5連敗するも徐々に成績を上げていく。[3]
1957年に早碁トーナメント戦で初優勝するなど、若手棋戦で活躍。1960年10月、『囲碁クラブ』の企画で内弟子指導碁シリーズと銘打ち、木谷實と二子で対局して勝利[5]。1961年3月から4月にかけて、朝日新聞社の企画で林海峰との新鋭三番碁を打つ。これが宿命のライバルとなる林との初対局だった[3]。林六段・大竹四段だったため、大竹の先番での対局で大竹の二勝・一ジゴとなり、このころから「竹林コンビ」と呼ばれるようになる。工藤紀夫を含めた3名で「三羽烏」ともよばれたこともある[6]。内弟子生活から独立する。
1962年に「木谷一門百段突破記念祝賀会」を企画し3,000人を集めた[4]。同年には新鋭選抜トーナメントで優勝し、初タイトルを獲得[7]。1967年に第6期日本棋院第一位決定戦で坂田栄男に挑戦し、2勝1敗でタイトルを奪取する。日本棋院第一位決定戦で2連覇後、これが発展した全日本第一位決定戦では碁聖戦に発展終了するまでの5期全てで防衛しタイトルを譲らなかった。1970年九段。
1975年に木谷門の弟弟子であった石田芳夫に名人戦で挑戦し、4勝3敗で奪取する。翌年から朝日新聞主催となった名人戦での3期在位を含め、1980年に趙治勲に敗れるまで6年連続で七番勝負出場。1982〜84年には趙治勲に3年連続挑戦、1984年は3連勝後4連敗を喫する。新旧リーグ在籍24期のうち12期挑戦者となり、「名人戦男」と呼ばれる。
全日本第一位決定戦の後継棋戦である碁聖戦では、第1期(1976年)は加藤正夫の挑戦を受け敗れるが、1980年から5連覇して名誉碁聖の資格を得、連覇記録は1985年までの6連覇に伸ばした。
名人戦に比べて不思議に本因坊戦には縁が薄いと言われていたが、1988年に武宮正樹本因坊に挑戦、3-4で敗れる。棋聖戦にも2度挑戦したが、1981年は藤沢秀行に0-4、1990年には小林光一に1-4で敗れる。
1992年には富士通杯に優勝、1993年には応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦の決勝に進むが徐奉洙に2勝3敗で敗れ準優勝、1994年にはテレビ囲碁アジア選手権戦で優勝。日中スーパー囲碁では、第2・7・10・11回に日本の主将を務め、第10回には5人抜きした常昊を止めて自らも4人抜きを果たすが馬暁春に敗れ、第11回には常昊に敗れ6人抜きを許した。
2000年には「木谷一門五百段突破記念の会」を開催。
2007年6月から日本棋院副理事長を務めたのち、2008年12月から2012年まで棋士としては6人目となる理事長に就任した。2010年3月に全日本囲碁連合が設立されると会長となる。2010年アジア競技大会囲碁チームの監督も務めた。
2011年3月28日、通算1200勝達成。史上5人目。68歳10か月・入段から54年11か月での到達[8]。2019年4月25日には史上4人目となる通算1300勝(820敗5持碁1無勝負)を達成[7]。
2021年12月15日付で引退。引退の理由については「頭に浮かんでくる図が、自分が思っているものよりも貧相になってきた」と語り、林海峰についても「彼がいなかったら、今の私はない」と思いを語った[9]。現役最終年となった2021年の成績は8勝9敗、通算成績は1319勝846敗5持碁1無勝負[10]。
履歴
- 1942年5月12日、福岡県八幡市に7人兄弟姉妹の次男に生まれる。
- 1950年(8歳) 八幡の碁会所に通い始める。
- 1951年(9歳) 12月、木谷實の試験後を受け、神奈川県平塚市の木谷道場に住み込み、内弟子生活を始める。
- 1956年(13歳) 3月、入段。
- 1957年(15歳) 二段。
- 1958年(16歳) 三段。第2期早碁トーナメント優勝。
- 1959年(17歳) 四段。
- 1961年(19歳) 五段。第1回青年選手権優勝。林海峰六段との三番碁で2勝1持碁。木谷道場から独立。
- 1962年(20歳) 新鋭選抜トーナメント優勝。呉清源との記念碁実施。
- 1963年(21歳) 六段。第1期プロ十傑戦ファン投票9位。
- 1965年(23歳) 七段。大手合第1部優勝。第9期首相杯争奪戦優勝。
- 1967年(25歳) 第6期日本棋院第一位戦タイトル奪取。
- 1968年(26歳) 第15回NHK杯優勝。日本棋院第一位戦防衛。名人戦リーグ入り。
- 1969年(27歳) 第8期十段位獲得。王座戦挑戦。棋道賞殊勲賞。
- 1970年 九段。第1期全日本第一位決定戦で防衛。棋道賞最優秀棋士賞受賞。
- 1971年 十段失冠。NHK杯優勝。全日本第一位決定戦防衛。
- 1972年(30歳) NHK杯準優勝。
- 1973年 NHK杯優勝。全日本第一位決定戦防衛。
- 1974年 早碁選手権優勝。「早碁の神様」と呼ばれ始める。全日本第一位決定戦防衛。
- 1975年 NHK杯4度目の優勝。第14期名人位獲得。全日本第一位決定戦5連覇[11]。第23期王座位獲得。棋道賞最優秀棋士賞・秀哉賞受賞。
- 1976年 名人位防衛。碁聖戦挑戦。王座位失冠。
- 1977年(35歳) 早碁選手権優勝。名人位失冠。
- 1978年 名人戦復位。碁聖位獲得。棋聖戦九段の部優勝。棋道賞最多勝利賞(39勝16敗)・連勝賞(13連勝)受賞。
- 1979年 名人位防衛。碁聖位失冠。
- 1980年 名人位失冠。十段位獲得。碁聖位を獲得し三冠となる。
- 1981年 棋聖戦挑戦。十段位防衛。碁聖位防衛。鶴聖戦優勝。第3期アジア航空杯優勝。
- 1982年(40歳) 名人位失冠。十段位失冠。碁聖位防衛。
- 1983年 鶴聖戦優勝。碁聖位防衛。名人位挑戦。
- 1984年 鶴聖戦優勝。碁聖戦5連覇を達成し「名誉碁聖」の称号を受ける。
- 1985年 十段戦挑戦。碁聖戦6連覇。
- 1986年 碁聖位失冠。
- 1987年(45歳) 鶴聖戦優勝。第6期NECカップ優勝。
- 1988年 本因坊戦挑戦。
- 1989年 棋聖戦挑戦。
- 1990年 名人戦挑戦。
- 1992年(50歳) 名人戦挑戦。
- 1993年 名人戦挑戦。十段位獲得。
- 1994年 NHK杯トーナメント5度目の優勝。十段位防衛。
- 1995年 十段位失冠。NECカップ優勝。
- 1998年 JT杯優勝。
- 1999年 通算1000勝達成。
- 2003年 北九州市民文化賞受賞
- 2004年(62歳) 紫綬褒章。通算1100達成。
- 2011年 通算1200勝達成。
- 2012年(70歳) 大倉喜七郎賞受賞。
- 2019年 通算1300勝達成。
- 2021年(79歳) 引退。
タイトル歴
タイトル獲得数48は歴代5位、七大タイトル獲得数17は歴代8位。
国際棋戦
国内棋戦
その他の棋歴
表彰
竹林杯
「囲碁クラブ」および「碁ワールド」誌上にて1999年から2001年まで、林海峰とともに竹林杯戦を企画、実施。主催は1999年は「囲碁クラブ」「碁ワールド」誌、2000-2001年は「碁ワールド」誌。
1999年、2000年は、精鋭八強戦として、若手選抜棋士8名によるトーナメント、2001年はチーム別・四世代対抗戦。この2001年第3回には大竹、林も選手として参加し、大竹は決勝で羽根直樹に敗れて準優勝となった。
有名局
1978年、第3期名人戦にて大竹が林海峯名人に挑戦したシリーズの第3局。黒1のヒラキに対し、白の大竹は1時間29分の長考の上、2から4とカケる珍しい手段を選んだ。
以下白12までとシボリ、黒13に対しては白14,16と二段バネして黒を辛抱させ、サバキに成功。
さらに局面が進み、黒1のカケを迎えた場面。白aからgと下辺で生きるようでは、黒hの攻めを受けて形勢を損じる。
ここで大竹は白2と打ち込み、△の3子を捨てる作戦を採った。白4,6を利かして厚くした上、白8から攻め立てて左上の模様を拡大。主導権を握って、快勝した。本局は大竹の名局とされ、多くの書籍で紹介されている[15]。
著作
- 『現代花形棋士名局選〈3〉大竹英雄』日本棋院 1975年
- 『親仙徳・大仙知 (日本囲碁大系7)』 筑摩書房 1977年
- 『明解 大竹囲碁講座』(全5巻)日本棋院 1977年
- 『定石全科』(全6巻)平凡社 1979年
- 『大竹英雄(上)(下)』(現代囲碁大系35,36)講談社 1980年
- 『大竹英雄打碁選集 (全5巻)』朝日新聞社 1984年
- 『基本置碁事典 上・下』日本棋院 1986年
- 『大竹英雄 (現代囲碁名勝負シリーズ5巻)』講談社 1986年
- 『大竹囲碁直伝シリーズ』(全5巻)日本棋院 1988年
- 『大竹兵法の極意 (碁の心発見シリーズ) 』日本棋院 2001年
エピソード
- 川端康成の小説『名人』で本因坊秀哉名人と対戦する大竹七段とは英雄のことではなく英雄の師匠の木谷實のことある。木谷の弟子である大竹と同姓なのは偶然と思われる(川端が『名人』を書き始めたのが1942年頃で初掲載が1951年8月号。英雄が木谷道場に入門したのが1951年の12月なため)。なぜ「大竹七段」なのかは英雄自身も疑問に思っており、そこで川端本人に真意を尋ねようと食事会の場を設け約束もしていたが、直前に川端は亡くなってしまった[4](逆に木谷がこの作品を意識して大竹の姓の少年を探したという説もある[16]。いずれにしろこの時9歳の大竹少年がまさか名人位を取るとは予想できなかっただろう)。
- 木谷が地方を周る時は大竹が一番お供をしていた[17]。
- 15歳プロ初段のときに木谷とともに名古屋に行き、当時8歳の石田芳夫(現:二十四世本因坊秀芳)と対局している。この対局により石田は木谷道場への入門が許された[17]。
- 原尞のハードボイルド小説に登場する私立探偵沢崎は大竹のファンであり、張り込み時などの時間潰し用に、常に大竹の棋書を持ち歩いている。これは原尞自身が大竹ファンであることによる。
- 戦後の碁が生産的でないと見なされていた頃、大竹も碁が大事にされてないと複雑な心境だった。八幡にいた子供の頃、大竹は蔵に入って書物を読み漁り独学を重ね、将来は医者になろうとも思っていた[4]。
参考文献
- 「特集 天才大竹英雄のすべて」(『囲碁クラブ』1979年1月号)
- 「石心 囲碁棋士大竹英雄評伝」井口幸久 石風社 2013年
年表
- タイトル戦の欄の氏名は対戦相手。うち、色付きのマス目は獲得(奪取または防衛)。色付きは名誉称号獲得。青色は挑戦者または失冠。黄色はリーグ成績。
- 棋道賞は、最 : 最優秀棋士賞、 優 : 優秀棋士賞、 特別 : 特別賞、
率 : 勝率一位賞、 勝 : 最多勝利賞、 対 : 最多対局賞、 連 : 連勝賞、 国際 : 国際賞、 新人 : 新人賞、 哉 : 秀哉賞
- 賞金&対局料は、度区切りではなく1月 - 12月の集計。単位は万円。色付きのは全棋士中1位。
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棋聖
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十段
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本因坊
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碁聖
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名人
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王座
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天元
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棋道賞
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備考
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棋聖戦 1-3月
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十段戦 3-4月
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本因坊戦 5-7月
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碁聖戦 6-8月
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名人戦 9-11月
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王座戦 10-12月
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天元戦 10-12月
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プロ入りは 1956
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1966 |
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1967 |
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1968 |
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1969 |
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坂田栄男 3-0
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藤沢秀行 0-2
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殊
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1970 |
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橋本宇太郎 2-3
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最
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1971 |
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1972 |
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1973 |
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1974 |
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1975 |
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石田芳夫 4-3 |
石田芳夫 2-0
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棋戦創設
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最
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1976 |
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棋戦創設
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石田芳夫 oooxo |
趙治勲 1-2
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1977 |
棋戦創設
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林海峰 xxxx |
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1978 |
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加藤正夫 3-1
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林海峰 xoooxo |
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優 連
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1979 |
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趙治勲 3-0
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坂田栄男 ooxoo |
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1980 |
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加藤正夫 3-0
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趙治勲 3-1
|
趙治勲 oox-oo |
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1981 |
藤沢秀行 xxxx
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橋本昌二 3-2
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|
加藤正夫 3-1
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プレーオフ
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1982 |
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趙治勲 1-3
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趙治勲 3-2
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趙治勲 xxxox |
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1983 |
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淡路修三 3-2
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趙治勲 xxoxx |
加藤正夫 0-2
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1984
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加藤正夫 3-1 名誉碁聖
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趙治勲oooxxxx |
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史上初の名誉碁聖
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1985 |
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小林光一 0-3
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工藤紀夫 3-1
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1986 |
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趙治勲 3-0
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1987 |
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1988 |
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武宮正樹 oxxoxox
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1989 |
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1990 |
小林光一 xoxxx
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小林光一 xooxxx |
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1991 |
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1992 |
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小林光一 xoxoxox |
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1993 |
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武宮正樹 3-1
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小林光一 xxoxx
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1994 |
|
小林光一 3-2
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1995 |
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依田紀基 xxx
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脚注
外部リンク
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七大タイトル |
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その他のタイトル |
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括弧のない棋士は名誉称号を名乗れる棋士(故人を含む)、括弧のある棋士は名誉称号を名乗ることのできない有資格者。 有資格者は、現役で60歳を迎えるか引退時、もしくは棋戦10連覇(本因坊戦は9連覇)達成時に名誉称号を名乗ることができる。 |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 |
- 第34回 (2000) 王立誠
- 第35回 (2001) 王立誠
- 第36回 (2002) 加藤正夫
- 第37回 (2003) 張栩
- 第38回 (2004) 張栩
- 第39回 (2005) 張栩
- 第40回 (2006) 山下敬吾
- 第41回 (2007) 張栩
- 第42回 (2008) 張栩
- 第43回 (2009) 張栩
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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括弧内は対象年。受賞は翌年。 |