大泊町(おおどまりちょう/おおとまりちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した町。
当該地域の領有権に関する詳細は樺太の項目を、現状に関してはサハリン州およびコルサコフの項目を参照。
概要
江戸時代から明治初頭にかけては久春古丹(クシュンコタン)と呼ばれており、中心地は後の楠渓町一帯であった。日本領有期の当初においては樺太庁が置かれ、樺太の大都市であった。
もとはアイヌ語でポロアントマリ(Poroantomari、「大きな港」の意味)と呼ばれたが、日本の統治下に入ってから、1908年の内務省告示第29号により、オホトマリ(大泊)と改名された。
樺太の南部亜庭湾沿いにあり、亜庭湾のほぼ中央部奥に位置する。台地・神楽岡を囲むように広がる市街地北部には楠渓町がある。
歴史
町内の地名
- 大泊
- 古牧(こまき)
- 雄吠泊(おほえとまり)
- 牧場(まきば)
- 南問串(みなみといくし)
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- 円留(えんる)
- 大畑(おおはた)
- 楠渓町(なんけいちょう)
- 栄町(さかえちょう)
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地域
教育
以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[3]。
国民学校
- 樺太公立大泊国民学校
- 樺太公立船見国民学校
- 樺太公立楠渓国民学校
- 樺太公立旭丘国民学校
- 樺太公立古牧国民学校
中等学校
金融機関
公共交通機関
- 大泊市街軌道 - 樺太大泊郡大泊町の大泊駅から同楠渓町駅の間を結んでいた私鉄。樺太では唯一の路面電車であり、ガソリンカーで運行されていた。
著名な出身者
脚注
- ^ 市町村別日本国勢総攬 下卷(帝国公民教育教会 1938年)に「面積 八・三五方里」とあり。
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実(西村いわお・著、高速印刷センター内出版部 1994年)より。
- ^ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1679、p. 1692 - 93
関連項目
外部リンク