大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 1944年10月18日)は、日本の陸軍軍人、作曲家、指揮者。最終階級は陸軍軍楽少佐。山形県米沢市出身。
1889年、小学校長を勤める音楽好きな父の家に生まれるが、7歳のころ生家の大滝家を離れ親戚の大沼家の養子となる。米沢工業学校卒業後に音楽への思い止みがたく上京して、軍楽兵を目指し1907年陸軍戸山学校に入校。同校を首席で卒業し銀時計を授与される(俗に言う「恩賜の銀時計組」)。1912年に陸軍戸山学校軍楽隊を中心とする選抜メンバーでイギリス演奏旅行する際、メンバーに選ばれず永井建子軍楽隊長の留守居役を命じられたことに発奮し、フランス語を習得した。また武井守成のマンドリン合奏団『オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ』で指揮者としての活動も行った。
戸山学校軍楽隊在勤中の1925年にフランスへ作曲を学ぶために留学。スコラ・カントルムで学び、ヴァンサン・ダンディに師事する。その後欧米各地を回り1927年に帰国、戸山学校軍楽隊長を経て、太平洋戦争(大東亜戦争)当時は南方軍総司令部軍楽隊長となった。1943年に陸軍軍楽隊では初めて少佐に昇進。1944年10月、フィリピン防衛戦勃発のためアメリカ軍の攻撃を避けるため南方軍総司令部はマニラからサイゴンに移動、それに南方軍軍楽隊も同行したが、フィリピン沖で乗船の輸送船「白鹿丸」が撃沈され隊員25名とともに戦死。生存者の目撃談によれば、大沼は「白鹿丸」の沈没後ドラム缶を縛った俄か筏の上に乗り、海に浮かぶ隊員を集めたり激励していたという。しかし、同日は悪天候で大時化の状態であり、全員波に呑まれて死亡したものとされている。
大沼の功績としては、フランス式喇叭鼓隊の導入[1]と戸山学校においてのソルフェージュ導入による音程教育が挙げられる。また、作曲の才能は山田耕筰がライバル視して警戒するほど高かったと言われている。しかし、不幸にも早世したことに加えて交響曲などの作品の多くが関東大震災及び戦災により失われ、現存する作品は行進曲などの吹奏楽曲が多い。この他、マンドリン作品は今日でも演奏される。
第1回全日本吹奏樂競演會 紀元二千六百年奉祝 集團音楽大行進並大競演會(現全日本吹奏楽コンクール)(1940年(昭和15年)11月23日)、第2回大会 全国吹奏樂大行進大競演會(1941年(昭和16年)11月23日)では、審査委員を務めた。