墨塗り教科書(すみぬりきょうかしょ)とは、教科書の記述に墨を塗らせて抹消したもの。
日本が第二次世界大戦で敗戦した直後に、国家主義や戦意を鼓舞する内容を抹消させたものが有名である。
教科書への墨塗りは、日本以外では韓国でも行われていた。
第二次世界大戦までの日本
教科書の選定制度は、1886年(明治19年)に小学校の教科書に検定制度が設けられたことが始まりである[1]。しかしながら、教科書疑獄事件をきっかけに、政府は1903年、小学校令を一部改正し、あらたに国が教科書を決める国定教科書制度を実施した。
満州事変ののちの1932年、犬養毅首相の暗殺後、軍事政権である斎藤内閣の政権下で、プロパガンダ機関として国民精神文化研究所や日本学術振興会が設立された。
1933年2月、斎藤内閣は国際連盟脱退を通告し、日本にナチス党日本支部が開設された。翌年には帝国弁護士会の活動によりワシントン海軍軍縮条約を脱退し(1936年に条約失効)、司法省が『ナチスの刑法』を翻訳出版するなど、ナチスの影響が強まり始める。
1935年には青年訓練所(16才以上)が青年学校に再編成され、翌年には、のちに禁書となった『国体の本義』が発行された[注釈 1]。
1937年、盧溝橋事件による日中戦争の開始をきっかけに、日本政府は国民精神総動員の指針を制定し国民精神総動員中央連盟による国民教化を開始。1940年には産業報国会及び大日本産業報国会が結成され、統制機関による統制経済に移行する。1938年には日本の体育の父・柔道の父と言われ、1940年東京オリンピックを招致した嘉納治五郎が没する。
1939年の日独文化協定はドイツと日本の文化提携を推進し、「ぜいたくは敵だ」などのスローガンが流布されるようになる。
1941年には『臣民の道』が発行され、教学局の前身が設立され、組織再編による大日本婦人会が設立され、開戦に至った。1942年には「進め一億火の玉だ」などの軍歌が流布された。
戦中の1943年には、商工会議所が商工経済会法によって廃止され、商工経済会が設立された(のちの経済団体連合会)。
こうしたなかで国定教科書にも「鬼畜米英」など、外国に対する嫌悪感や国家主義・国粋主義を煽る文章が載るようになっていた。
第二次世界大戦後の占領下の日本
「終戦に伴ふ教科書図書取扱方に関する件」に基づき、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が不適切と判断したものは書き換えられるか、墨塗りされた。教科によっては、ほぼ全行に抹消線が引かれたものもあった。当時の国民学校(現:小学校・中学校)では、当時使われた教科書のうち、戦意高揚をうたった文章の箇所については「墨汁で塗りつぶして読めないように」という進駐軍の指示(命令)が出されたためである。また、児童が教員の指示に従い塗りつぶしを行った。
同時に、教職追放令により、45万の教員のうち11万5千人が辞職、約5,200人が教職追放となった。マッカーサーの陸軍省宛の報告には、「推定1800万人の生徒、40万人の教師、4万の学校は、占領政策の道具である」とあり、その意図に沿った指令であったとされる。
関連項目
脚注
- 注釈
- 出典
参考文献
- 茂木友三郎「終わらぬ夏」『読売新聞』2020年8月10日、第12版。
外部リンク