土人形(つちにんぎょう)は日本古来の伝統工芸品の人形で、低火力の素焼きに胡粉をかけて泥絵具で彩色をした人形であり、素朴な味わいが多くの人々に愛されている。京都の「伏見人形」、福岡の博多人形が代表的な土人形である。他に郷土人形として、各地にも存在した。
土人形の最古の産地は深草とされており、ここで製作される伏見人形(稲荷人形)をもとに日本各地へ流伝したと考えられている[1]。深草では平安時代以前より土器製作が始まっており、江戸時代までには人形類の製作が行われていた[2]。土人形は粘土質の土と像をつくるための型があれば容易に製作することができた[3]。
江戸時代には農家の収入を増やすため各地で生産が奨励された。大蔵永常の『広益国産考』は農業書であるが農家での土人形の製作を奨励している[3]。
明治維新(1868年)後は新しい生活様式により衰退した。人形の内容が時勢にあわなくなった理由もある。1900年6月30日大阪府令第41号によると(有毒性着色料取締施行細則)及び同年8月に発令された内務省令により鉛を原料とした塗料の使用が禁止された。これは土人形の制作に重大な影響を与えた[4]。
なお、彩色されない土人形もある。三猿とか、土面子(つちめんこ)などが熊本県木葉(このは)にある。
京都・深草の伏見稲荷大社周辺で焼かれる土人形。江戸時代後期に50~60あった窯元は一カ所に減ったが、現代でも製作されている。
伏見では粘土を産し、古くから土師器が焼かれていた。稲荷山の土に物を利する霊験があるとされ、乞うて持ち帰る風習があり、平安時代には周辺の住民がその土を丸めて粒に作り店に出して売るようになった。これを粒粒(つぼつぼ)と言った。何時の頃からか、中を空にした盆の様にした物を田豊(でんぽう)と称し、次第に器皿の形のものが作られるようになった。江戸時代に世の中が安定して京を経由する人の往来や伏見稲荷参詣が盛んになると、このほかに土鈴(どれい)をはじめ、牛・馬・鳥をかたどった土産物が焼かれるようになり、子供の玩具として喜ばれた。さらに、これらの土産物は稲荷神の使いとされる狐を中心とする動物や、金太郎など人物と様々に精巧な人形となって世に珍重されるようになった[5]。往時、深草の西部に瓦焼き事業者の集積地があり、令和現在も工芸瓦工房が少し残る他、住居表示に名残をとどめるが、江戸時代に入り経済生活の安定や稲荷社信仰の発達から、稲荷社参詣の土産品の量産が必要とされ、瓦焼きの手法である“型”の使用が始まった。廃業した窯元が使っていた型が2000種程度、伏見人形づくりを続ける「丹嘉」に保管されている。
伏見人形は別名「稲荷人形」「深草人形」「伏見焼」「深草焼」「稲荷焼」とも呼ばれる。江戸時代、京都を経由する旅人や商人、西国大名の参勤交代行列により伏見人形は日本各地に伝わり、それぞれの土地の土人形・郷土玩具の原型となった[6][7]。
伏見稲荷の南に当り良土を産する深草の地で、土師器の流れを伝え、建保2年(1214年)の『東北院職人歌合』にも詠まれたように“かわらけ”が造られていた。室町時代に入るとともに、それに加えて火鉢、小壷などの日用品や茶器なども併せ作られるようになった。
京都の伏見人形は全国に類型の土人形の原型となったが、宮崎県の佐土原には、江戸時代から佐土原土人形が製作されていた。佐土原初代領主は伏見で亡くなり、伏見には屋敷もあり京都との関係があった。しかし、それとは別に、佐土原土人形は朝鮮伝来説も強い。即ち島津が陶工を連れてきて、高麗町(コレマチ)に住まわせたとある[8][9][4]。
ある)
1900年以降、鉛含有のため、使用禁止された丹の発色ができず、苦労があった。宮崎県の有吉知事の援助で6か月博多に学びに出掛けたが、土人形の博多人形化は無理ということがわかり、従来の佐土原人形を欲しがるものも多かったが、逆に博多人形を欲しがるものも出た。
上記以外の人形の名前を記す。多くは土人形である[10]。