吉岡 俊正(よしおか としまさ)は、日本の医学者(医学教育学・小児腎疾患)、医師。学位は医学博士(北里大学・1990年)。学校法人東京女子医科大学理事長。
ヴァンダービルト大学医学部講師、東京女子医科大学医学部主任教授、学校法人東京女子医科大学副理事長などを歴任した。
来歴
生い立ち
医学者の吉岡守正の子として生まれた[1]。父と同じく医学の道を志し、北里大学に進学し医学部で学んだ[2][3]。1979年、北里大学を卒業した[2][3]。なお、1990年には、博士論文「Impaired preservation of GFR during hypotension in preexistent renal hypoperfusion」にて、北里大学より医学博士の学位を取得している。
大学卒業後は、研修医として北里大学病院の小児科に勤務する[2][3]。その後、アメリカ合衆国に渡った。1984年、ハーバード大学医学大学院のボストン小児病院にて、腎臓病科のリサーチフェローとなった[2][3]。
研究者として
1987年、ヴァンダービルト大学にて、医学部の講師に就任した[2][3]。医学部においては、主として小児科を担当した[2][3]。その後、日本に帰国した。1994年、東京女子医科大学にて、医学部の講師に就任した[2][3]。講師としては、主として腎臓小児科を担当した[2][3]。1997年には、東京女子大学の医学部にて助教授に就任した[3][2][3]。助教授としては、当初は主に薬理学を担当したが[2][3]、2001年からは医学教育学を担当した[3]。2003年、東京女子医科大学の医学部にて主任教授に就任した[2][3]。主任教授としては、主として医学教育学を担当した[2][3]。また、東京女子医科大学を設置・運営する法人である「学校法人東京女子医科大学」においては、理事も務めた[3]。2010年には、法人の副理事長に就任した[2]。2013年4月1日には、吉岡博光の後任として、法人の理事長に就任した[4]。
そのほかの役職としては、2012年より、文部科学省の審議会等のひとつである大学設置・学校法人審議会にて学校法人分科会の委員を務めた[2]。また、日本の大学に対する認証評価機関である大学基準協会にて、大学評価委員・主査を務めた[2]。また、日本国外の大学においても、フィジー大学の医学部の認証評価主査や、モンゴル医科大学の外部評価委員などを務めた[2]。
研究
専門は医学であり、医学教育学や小児腎疾患といった分野を中心に研究に取り組んだ[3]。東京女子医科大学では医学教育学教室を担当し、「テュートリアル教育」や「チーム・ベースド・ラーニング」の導入に力を注いだ[1][5]。学術団体としては、西太平洋地区医学教育連盟では会長を務め、日本医学教育学会や日本医学英語教育学会では理事を務めた[3]。また、日本医学教育学会では、医学教育分野別評価基準策定委員会の委員長も務めた[2]。全国医学部長病院長会議の医学部・医科大学の教育評価に関わる検討委員会や、日本私立医科大学協会の治験推進委員会では、それぞれ委員を務めた[2]。
家族・親族
縁戚には学者や医師が多い。俊正とその一家について、酪農学園大学獣医学部教授の泉澤康晴は「吉岡俊正先生は、1990年に“テュートリアル教育”を導入した吉岡守正先生のご子息で、創立者吉岡彌生(やよい)先生のお孫さん」[1](原文ママ)であると述べている。父の吉岡守正も医学者であり[1]、東京女子医科大学において「テュートリアル教育」の導入に尽力した[1]。後年、東京女子医科大学の学長を務めている。また、祖母の吉岡彌生は[1]、東京女子医科大学の前身である東京女医学校や東京女子医学専門学校の創設者であり[6][7]、夫の吉岡荒太とともに日本の女性医師の育成に尽力した[8]。なお、彌生は鷲山家から吉岡家に嫁いだが、彌生の父である鷲山養斎も医師であった[9]。また、東京学芸大学学長などを歴任した文学者の鷲山恭彦は、彌生の実家の本家筋にあたる。
略歴
著作
共著
分担執筆
翻訳
- World Federation for Medical Education編、吉岡俊正・小島多香子監訳、大久保由美子・菅沼太陽翻訳協力『世界医学教育連盟グローバルスタンダード』2003年版、吉岡俊正、2010年。
監修
脚注
関連項目
外部リンク