光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年(明治30年)10月9日 - 1944年(昭和19年)6月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
人物
岡山県高梁市出身。大阪府立北野中学校より海軍兵学校第47期に進み首席で卒業した。しかし海軍大学校甲種課程には進まず、ヨーロッパへの出張と駐在を繰返し、井上成美らにその常識的思考を高く評価されていた。
イタリアでバドリオ政権が連合国に降伏した際、スイスに業務連絡の為に移動。フィレンツェ北方のアッペンニーノ山脈を通行中にマンリーコ・ドゥッチェスキ(イタリア語版)率いるパルチザンの襲撃に遭い、同乗していた山仲伝吾海軍中佐は重傷だったが、光延は射殺され戦死扱となる[1]。
同行していた妻トヨと子供たちは、ドイツ、スイスを経てアメリカ合衆国へ逃れ、同地で日本の敗戦を知ることとなる。
光延の遺体は荼毘に付され、ドイツ・ドレスデン郊外のケーニッヒシュタイン(ドイツ語版)に埋葬されたが、50年後の1994年に長女の孝子が母のトヨと共に日本へ持ち帰り、改葬された。
家族・親族
年譜
参考文献
関連項目
脚注
外部リンク