今泉(いまいずみ)は、静岡県富士市の大字。丁番を持たない地域と、今泉一丁目から今泉九丁目により成る[1]。住居表示実施済み区域[4]。郵便番号は417-0001[2]。
中部ブロック・今泉地区に属する[5]。
市の南部に位置する。北部は富士裾野のなだらかな傾斜で、平地となっている南部の二、三丁目には製紙工場が立ち並ぶ。住宅密集地も多い[6]。北部に東名高速道路、南部に岳南電車岳南線が東西に通っており、本吉原駅がある。
今泉はその名が示す通り、富士山や愛鷹山から浸み込んだ水が諸所で湧き出す湧水地帯となっている[7]。湧水群から流れる田宿川は高い透明度を持つ清流で、バイカモも植生しており、毎年7月下旬には「たらい流し川祭り」が催される[8]。
1887年(明治20年)には芦川万次郎がこの湧水地帯(ガマ)に手漉き和紙工場を設立し、これを皮切りに明治20、30年代にかけて、今泉を中心に多くの手すき和紙工場が設立された。これが現在にまで至る、富士市の製紙産業の基盤となっている[9]。
古くは富士郡今泉村であった。今泉村は現在の今泉全域、新橋町、依田橋町、広見東本町に当る。
古くは「瀬古」の名で、のちに「善徳寺村」を経て寛文2年(1662年)に「今泉村」と改称された。中世には須津庄の内の今泉郷と称し、貞治5年(1366年)3月9日付の「駿河守護今川氏家書下(駿河伊達文書)」に「須津庄内今泉郷」とある[10]。
2021年(令和3年)1月1日現在の、世帯数と人口は以下の通りである[1]。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[12][13]。
吉原高等学校の西方に「源太坂」という坂があり、梶原源太景季と佐々木四郎高綱が馬比べをした話が伝わっている。
寿永3年(1184年)、宇治川の戦いのために源義経、源範頼が京都へ向う途中、今泉の高台に野営した。景季は出発前、源頼朝に名馬の生食(いけづき)の拝領を願い出たが認められず、代りに磨墨(するすみ)を与えられた[14]。この磨墨も生食に負けず劣らずの名馬であったが、その後に頼朝へ生食の拝領を願い出た高綱は、意外にも生食を譲り受けることができた[14]。ここで野営した際、景季は高綱が生食を持っているのを見て顔色を変え、刺し違えて死のうとまで考えたが、相手の様子がおかしいことに気付いた高綱は景季の質問に、「ご貴殿がお願いしても駄目であったのだからそれがしも生食を頂く望みはないと思い、そっと盗んできた」と答えた。景季は表情をやわらげて大声で笑い、大事には至らなかったという[15]。
善得寺(善徳寺とも書かれる)は貞治2年(1363年)に大勲策禅師が建立した天寧庵を始まりとする寺院で、今川氏・武田氏・北条氏が甲相駿三国同盟を結んだ場所と伝えられている。明治4年(1871年)に廃仏毀釈運動の影響を受けて廃寺となり、現在の跡地には往時を偲ばせるものは殆どないが、代々の禅師の墓が僅かに現存する[16]。
1990年(平成2年)には、市内初の史跡公園「善得寺公園」として整備された[16]。