丸目 敏栄(まるめ としひで、1940年3月12日 - 1980年8月4日[1])は、日本中央競馬会に所属した騎手、調教師[1]。鹿児島県大口市生まれ[1]。
橋本輝雄厩舎に所属し、1959年3月8日に騎手としてのデビューを迎え、3着。3か月後の6月14日に初勝利を挙げた。デビュー初年度からエドヒメで目黒記念に優勝して重賞勝利を挙げると、2年目には36勝を挙げて全国リーディングで10位に付けるなど、早くから関東若手有力騎手の一人として高く評価されていた。1964年には内臓疾患により長期離脱を余儀なくされたが、復帰後も順調に勝ち星を積み重ねる。1969年には「上がり馬」として知られるアカネテンリュウに騎乗して菊花賞に優勝[1]し、八大競走を初制覇。以後も同馬とのコンビで重賞戦線を賑わせた。
しかし1971年5月30日に行われた日本経済賞のレース中、騎乗していたスイノオーザを第4コーナーで内に入れようとしたところ、先行していたハクエイホウの故障の巻き添えに遭い落馬[1]。後頭部を強打して、約2か月間意識不明[1]の重体となった。命の危険もあったが、懸命の治療で一命を取り留め、その後騎手復帰を目指してリハビリを続けたが、騎手復帰は叶わず、引退して調教助手となった。
その後1978年に調教師免許を取得[1]し、1979年に厩舎を開業したが、1980年8月4日の早朝、出張先の函館競馬場の寮内で脳出血により[1]急死しているのを発見された。40歳没。
93戦9勝[1]