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この項目では、調教師について記述しています。柔道家の同名の人物については「中村均 (柔道)」をご覧ください。 |
中村 均(なかむら ひとし、1948年9月13日 - )は京都府京都市左京区一乗寺[1]出身の元調教師。
父も元調教師の中村覚之助。
2010年2月まで日本調教師会会長を務めていた。2011年の時点では同会名誉会長を務めている[2]。
来歴
京都市立修学院小学校出身[1]。麻布獣医科大学を首席[3]卒業し、1971年に栗東・中村覚之助厩舎の厩務員となり、後に調教助手となる。
1977年に成宮明光に次ぐ28歳6ヶ月の若さで調教師免許を取得し、1978年に厩舎を開業。7月8日の中京第1競走アラブ3歳未勝利・アイチハヤオーが初出走で2着となり、9月10日の阪神第4競走4歳以上300万下・エスティキング(延べ6頭目)で初勝利を挙げる。1983年に阪神障害ステークス(春)をキョウエイウオリアが制し重賞初勝利を挙げると、同年にはダートを2連勝したジョーキジルクムで優駿牝馬(オークス)に参戦。担当厩務員はトレセンに入ったばかりの20代で、鞍上の岡冨俊一は2年目であった[4]。闇雲に挑戦したため作戦などもなく、パドックでは岡冨が顔に真っ青にしていたが、レースでは5頭横一線でタイム差無しの史上稀に見る激戦の4着に好走[4]。1984年にはオークスをトウカイローマンで制しGI及びクラシック初勝利を挙げるが、この時は緻密な計算で練り上げた作戦を岡冨に伝授。岡冨も前年の経験から緊張せずに作戦を忠実に実行し、ダイアナソロンの二冠を阻止した[4]。
1995年、11月23日に管理馬が地方競馬に初出走。
1997年、12月10日に管理馬が地方競馬での初勝利を挙げる。
2001年、7月29日に函館2歳ステークスをサダムブルースカイが優勝。これが調教師としては最多の、函館2歳(3歳)ステークス3勝目となった。この記録は現在まで破られていない。
2007年4月2日、調教師史上100人目のJRA通算500勝を達成[5]。8月には函館開催のリーディングトレーナーとなる[6]。9月8日、グレード制導入(1984年)以降では当時のJRA新記録となる、11週連続勝利を達成する[7]。
2012年、4月29日に天皇賞(春)でビートブラックが優勝。父は1972年の秋にヤマニンウエーブで制しており、天皇賞親子制覇[8]。
2019年2月28日付けで定年の為、調教師を引退した。引退後は東京スポーツ専属の競馬評論家として安藤勝己らとともに活動している。
2020年11月3日付けで発表された秋の叙勲受章者において、岡部幸雄とともに旭日小綬章を受章[9]。
人物
趣味は映画鑑賞。中学生の時に洋画に興味を持ち、映画関係の雑誌を買っていたという[10]。また、若いころにバンドを組んでいたこともあったという[10]。
調教師成績
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日付 |
競走名 |
馬名 |
頭数 |
人気 |
着順
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初出走 |
1978年7月8日 |
- |
アイチハヤオー |
- |
- |
2着
|
初勝利 |
1978年9月10日 |
- |
エスティキング |
- |
- |
1着
|
重賞初出走 |
1979年1月28日 |
アラブ大賞典(春) |
アイチハヤオー |
12頭 |
12 |
10着
|
重賞初勝利 |
1985年2月27日 |
阪神障害S(春) |
キョウエイウオリア |
11頭 |
5 |
1着
|
GI初出走 |
1980年4月6日 |
桜花賞 |
サニードンテスコ |
21頭 |
13 |
9着
|
GI初勝利 |
1984年5月20日 |
優駿牝馬 |
トウカイローマン |
25頭 |
9 |
1着
|
主な管理馬
※括弧内は当該馬の優勝重賞競走、太字はGI級競走。
表彰
- 1988年
- 1988年
- 2020年
- 2020年
主な厩舎所属者
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
脚注
関連項目
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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