三島 雅夫(みしま まさお、1906年〈明治39年〉1月2日 - 1973年〈昭和48年〉7月18日)は、日本の俳優。本名・長岡 正雄(ながおか まさお)。
東京都で生まれ、新潟県三島郡与板町(現・長岡市)に育つ。本名は長岡 正雄(ながおか まさお)。与板藩士であった父・茂雄と母・マツの間に6人兄弟(男4人・女2人)の長子、長男として生まれた。1924年(大正13年)に獨協中学校(旧制中学校)を卒業し、茂雄がのめりこんでいた影響で演劇(新劇)の世界に足を踏み入れる(茂雄も演者として舞台に立っていたようである)。同年に『ヴェニスの商人』で初舞台を踏んだ。茂雄の演劇への入れ込みようは激しく、その為に身代が傾きかけ、息子(三島の弟)を奉公に出す羽目に陥ったほどである。逆に言えば、その傾倒ぶりが後の三島の演技に大きく作用したとも言える。また三島は小山内薫とも親交があったと言われる。
1928年(昭和3年)、小山内の築地小劇場に加わるが、翌年の1929年(昭和4年)に小山内が急死。指導者の居なくなった小劇場では内紛がおき、それに三島も巻き込まれていった。同年、三島は小劇場から分裂した新築地劇団に入団した。1930年(昭和5年)、法政大学独文科を中退。法政では関口存男の薫陶を受ける。
1934年(昭和9年)には新協劇団の創設に参加、『夜明け前』や『火山灰地』の舞台で頭角を現していった。しかし、左翼志向の強い劇団で芝居を続けていたため、当時の政府による弾圧を受けて何度も検挙されていた。1940年(昭和15年)、新協劇団が政府の強い弾圧により強制解散され、劇団員の三島らは投獄される。出獄後の1942年(昭和17年)[1]、井上正夫が主宰する井上演劇道場に入った。
戦後は第2次新協劇団や泉座などに在籍、交流のある劇団の客演などもこなしていたが、1956年(昭和31年)に東山千栄子らに請われて劇団俳優座に入団した。『死せる魂』など数多くの舞台に立ち名演を見せた。1958年(昭和33年)、舞台の代表作である『幽霊はここにいる』の演技で週刊読売演劇演技賞を受賞。1964年(昭和39年)には俳優座第63回公演『東海道四谷怪談』の按摩宅悦の演技で芸術祭奨励賞を受賞した(なおこの時の芸術祭賞は長岡輝子、同じ芸術祭奨励賞を南美江、赤岡都、劇団東演、劇団三期会が受賞している)[2]。
1935年(昭和10年)に『女優と詩人』で映画に初出演し、戦前は東宝映画を中心に出演。戦後も数多くの作品に出演、温厚な父親から時代劇での悪役、三枚目など演技幅は広く、独特な存在感と個性的な演技で名脇役となった。舞台俳優としての出演作品の数は多く(俳優座関連では田中邦衛・東野英治郎に次いで多い)、その数は300本に及ぶ。また怪優とも言われた。
1973年、死去。
1928年に築地小劇場の舞台に出演した時、共演者の女優・飯島綾子と出会う。共演を重ねるうちに恋仲になり、結婚に踏み込むが、周囲の反対にあい結婚は困難を極めた。それでも8年間交際を続け、1936年(昭和11年)10月に結婚した。しかし、三島は思想弾圧の悪化で何度も投獄されていたため綾子の実家が激怒、やむなく離婚することとなった。1940年に投獄された際に、綾子はそのせいで心労が重なり、十数年後に病死している[3]。
井上演劇道場在籍中に同劇場で知り合った女性と再婚[3]。その女性との間に1947年(昭和22年)、一女(舞台女優・三島千枝、本名:長岡せい)を儲けている。
など
太字はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品
一時期、アルフレッド・ヒッチコックの作品『ヒッチコック・サスペンス』シリーズの日本放映でヒッチコック本人の吹き替えを担当していた。これは、三島の顔がヒッチコックと非常に似ているという理由で選抜されたという。[要出典]
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