三宅 純(みやけ じゅん、英語: Jun Miyake、 1958年1月7日 - )は、日本の作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、トランペット奏者[2]。
ニューヨークで活動しているジャズ・サックス奏者ジュン・ミヤケ(三宅准)は同名異人。
1958年京都府に生まれ、鎌倉で育つ[1]。神奈川県立光陵高等学校在学中より新宿ピット・イン等でプロとしてライヴ活動を始める。大学受験期を目前にして尊敬する日野皓正を訪ねる。
1976年、日野の推薦で高校卒業後、バークリー音楽大学へ入学する[3]。在米中は自己のグループを率いて、ボストン、ニューヨークで演奏活動。
1981年、マサチューセッツ州のアーティスト・ファウンデーション主催の作曲コンクール・ジャズ部門で優勝する[2]。
同年、日本に帰国し、ジャズ・ミュージシャンとしてライブ・スタジオワーク・作曲・編曲活動を開始[注 1]。時代の盲点を突いたアーティスト活動の傍ら、作曲家としてCM、映画、ドキュメンタリー、コンテンポラリー・ダンス等、多くの作品に関わる。
1983年、アルバム『JUNE NIGHT LOVE』でTDKレコードからメジャー・デビュー。
1984年、TDKレコードから発売された1stアルバム『June Night Love』に収められた「Could it be real?」「I knew I was」の2曲がアンディ・ウォーホル出演のTDKのCMに使用されたことがきっかけでCM音楽の作曲依頼を受けるようになり、後に「CM王」との異名をとるほどCM音楽界で名を馳せる。3000作を越えるという担当CMの中には、「カンヌ国際映画祭」などでの受賞作も多数ある。
1996年、オリバー・ストーンの推薦により、クリエイティヴ・アーティスツ・エージェンシー(CAA)と作曲家として正式契約。
2005年秋、パリに拠点を構えて世界を舞台に活動を始める[1]。『Stolen from strangers』(2007年)、『Lost Memory Theatre act-1』(2013年)、『Lost Memory Theatre act-2』(2014年)『Lost Memory Theatre act-3』(2018年)『Whispered Garden』(2021年)のオリジナル・アルバム5作は、仏独の音楽誌で「年間ベスト・アルバム」「音楽批評家大賞」などを連続受賞。
2009年、フランスの大手百貨店ギャラリーラファイエット・オムの「2009年の男」に選出され、同年の5月にはパリの街を三宅純のポスターが埋め尽くした[2]。
2011年、主要楽曲を提供したヴィム・ヴェンダース監督作品『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(2011年)は「ヨーロッパ映画賞 2011」ベストドキュメンタリー賞を受賞、
2012年、「第84回アカデミー賞」・長編ドキュメンタリー映画賞、「第65回英国アカデミー賞」・非英語作品賞にノミネートされた。
2016年、リオ五輪の閉会式のフラッグハンドオーバー・セレモニーでは、セレモニーの導入曲となる「君が代」の編曲、および後奏曲である「ANTHEM OUTRO」の作曲・編曲を手掛けた。
同年4月、音楽監督を務めた椎名林檎から「2014年のパリのコンサートで取り入れていたブルガリアン・ヴォイスのスタイルでできないか」と打診され、挑戦的で前例のないアレンジになるため、その方向性で問題がないか各方面に許諾をとってもらえるならという条件付きで引き受けた。調整は難航したものの、ひと月ほど後に組織委員会からのゴーサインが出た[4][5]。
2017年1月、TBS系で放映されたドキュメンタリー『情熱大陸』に特集された。
2017年5月、外務省が日本文化の発信拠点として世界の3都市(ロンドン、ロサンゼルス、サンパウロ)に設置する施設「ジャパン・ハウス」の1号館「ジャパン・ハウス サンパウロ」のオープニングに際し、イビラプエラ劇場で開催された記念コンサートに坂本龍一とともに出演した[6]。
2020年2月、舞台の仕事で帰国中に新型コロナウイルス感染症によるパンデミックが激化したため、3年間日本に避難。
2023年9月、日本滞在中にフランスのヴィザが失効したことを期に、ニューヨークに新たな拠点を築く決意をし、アーティスト・ヴィザ取得の準備を始める。
2024年5月、新拠点設置のためニューヨークに渡る。
パリを拠点に活動する音楽家。日野皓正に見出され、バークリー音楽大学に学び、ジャズ・ミュージシャンとして活動を開始。ニューヨークでキャリアの地歩を固め、オリジナリティあふれるサウンドで世界的な称賛を受ける。1981年にアメリカから帰国後は作曲家としてCM・映画・アニメ・コンテンポラリー・ダンスなど多くの作品を手掛けるようになる[注 2]。2002年にロバート・ウィルソンと仕事をしたのがきっかけで、舞台作品にも関わるようになる。2005年に拠点をパリに移動[1][2][4]。
ジャズやクラシック、シャンソン、キャバレー・ミュージック、エレクトロニカ、南米音楽からブルガリアン・ヴォイスまで、国境・ジャンル・時代を超え[4]、異種交配を多用したその個性的なサウンドは、ピナ・バウシュ、ヴィム・ヴェンダース、フィリップ・ドゥクフレ、ハル・ウィルナー、ガス・ヴァン・サント、ロバート・ウィルソン、ジャン=ポール・グード(英語版)、大友克洋等、国内外のクリエイターから称賛を得ている。
ジャンルを超越した活動を通じてハル・ウィルナー、ロバート・ウィルソン、ピナ・バウシュ、ヴィム・ヴェンダース、フィリップ・ドゥクフレ、パトリス・ルコント、ジャン=ポール・グード、ガス・ヴァン・サント、ピーター・シェラー、アート・リンゼイ、エヴァン・ルーリー、アルチュール・H、ヴィニシウス・カントゥアリア、デヴィッド・バーン、ニナ・ハーゲン、ダファー・ユーセフ、ロン・カーター、アル・フォスター、ローランド・ハナ、マイケル・ブレッカー、デイヴィッド・サンボーンなど多くの海外アーティストと交流を育み、パリ・シャイヨー宮におけるフィリップ・ドゥクフレとの即興セッション(2000年)、ロバート・ウィルソンの『The White Town』の音楽監督(2002年)、北京での京劇俳優との即興セッション(2002年)、ベルリン・ジャズ・フェスティバルへの参加(2003年)、ピナ・バウシュ、フィリップ・ドゥクフレ、カトリーヌ・ウィードマン等ダンス作品への楽曲提供(2005年〜2010年)、アカデミー賞にノミネートされたヴィム・ヴェンダース監督の映画『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』への主要楽曲提供(2011年)など、国際的にも高く評価されている[1][2][4]。
父は三宅昭久(岡山県出身、第六高等学校から東京大学を経て理学博士、東レ基礎研究所所長、東レ専務理事などを歴任)
祖父は三宅輝男(三菱商事常務取締役、大阪支社長などを歴任)
母は五百籏頭眞治郎(経済学博士、神戸大学名誉教授)の長女、正子。
母方の叔父に五百籏頭博治(神学者、南山大学名誉教授)、五百籏頭眞(法学博士、神戸大学名誉教授、文化功労者)、
従兄弟に五百籏頭薫(政治学者、東京大学教授)、五百旗頭幸男(アナウンサー、映画監督)、五百籏頭真吾(経済学者、同志社大学教授)、五百旗頭健吾(情報通信学者、岡山大学院特任准教授)などがいる。
プロデュース・作曲・編曲・演奏すべて三宅純による。
作曲したものは多数に及ぶ。下記はその一部。
*Cartier *Chanel
等受賞作多数
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