ヴィリニュス国立ヴィンツァス・カプスカス記念大学(リトアニア語: Vilniaus valstybinis Vinco Kapsuko universitetas) - ソヴィエト連邦時代(1955年以降)
ヴィリニュス労働赤旗勲章および民族友好勲章授与国立ヴィンツァス・カプスカス記念大学(リトアニア語: Vilniaus Raudonos darbo vėliavos ordino ir Tautų draugystės ordino valstybinis Vinco Kapsuko universitetas) - ソヴィエト連邦時代(1979年以降)
1575年、ミコワイ・クシシュトフ公らの支援により大学に印刷所が完成した。これはこの地域で最も古い印刷所の一つで、ここではラテン語やポーランド語による本が印刷され、さらに1595年には、リトアニア語で書かれた、リトアニア大公国で印刷されたものでは現存する最古の本もここで印刷されている。この本は『Kathechismas, arba Mokslas kiekvienam krikščioniui privalus』と題され、ミカロユス・ダウクシャ (Mikalojus Daukša) によって書かれた。
かつての天文台
アカデミーは17世紀まで発展を続けた。しかし、後に大洪水時代と呼ばれることとなる17世紀後半には、入学が許可された学生の数は劇的に減少し、教育の質も落ちた。18世紀半ばになると、アカデミー当局はアカデミーを復活させようと努めた。例えば、1753年には Tomasz Żebrowski によって、ポーランド・リトアニア共和国で最初の天文台が作られている。これはヨーロッパでも4番目に古い専門施設である。イエズス会の制度が衰退し1773年にはイエズス会が廃止されたため、その年には世界で最初の文部省とも言える国民教育委員会(ポーランド語: Komisja Edukacji Narodowej)がアカデミーを監督するようになり、その結果アカデミーは近代的な大学へと変革していった[7]。 Marcin Odlanicki Poczobutt 学長の尽力により、1783年、アカデミーに「拠点学校[訳語疑問点]」(ポーランド語: Szkoła Główna)の地位が与えられ、リトアニア大公国拠点学校[訳語疑問点](ラテン語: Schola Princeps Magni Ducatus Lithuaniae)と名称変更された[8]。
ポーランド分割後
ヴィリニュス大学のキャンパス(19世紀)
1795年にポーランド・リトアニア共和国が分割される(いわゆる第三次ポーランド分割)と、ヴィリニュスはロシア帝国領となり、アカデミーの名称もヴィリニュス拠点学校[訳語疑問点](ラテン語: Schola Princeps Vilnensis)に改名された[8]。しかしその後も1803年までは国民教育委員会がアカデミーを監督していた。1803年、ロシア皇帝のアレクサンドル1世が新法令を承諾し、アカデミーをヴィリナ帝国大学(ロシア語: Императорскiй Виленскiй Университетъ)に名称変更した。
大学にはチェスワフ・ミウォシュ、 Władysław Tatarkiewicz 、 Marian Zdziechowski といった著名な科学者が在籍していたため、大学はすぐに国際的な評判を取り戻した。当時の大学には、後にノーベル文学賞を受賞するチェスワフ・ミウォシュも学生として法学部に在籍していた。ポーランド政府からの補助金や個人からの寄付金により、大学はすぐに発展していった。当時大学図書館には歴史的所蔵品や地図などを含む60万冊が所蔵されており[9]、これらは現在でも保存されている。
ドイツ軍によるポーランド侵攻(1939年)により、大学での教育は中止に追い込まれた。その後すぐにヴィリニュスはソヴィエト連邦に占領された。交戦状態が収束すると、教員の多くが大学に戻り、1939年10月1日、大学が再開校された。10月28日、ヴィリニュス地域はリトアニア共和国に編入された[10]。1939年12月15日、リトアニア当局は大学を閉鎖、教員と学生約3,000名は解散を命じられ、リトアニア化政策の一環で、それまでの大学と同じ場所に新しくヴィリニュス大学(リトアニア語: Vilniaus Universitetas)が設置された。新たな大学憲章には、ヴィリニュス大学はヴィータウタス・マグヌス大学制定法にもとづいて運営されることが明記され、またリトアニア語によるプログラム、学科が設置されることとなり、リトアニア語が大学の公用語とされた。それまでの法学社会科学部、人文科学部、医学部、神学部、数理生命科学部は地下活動を続けた[11]。
1955年、大学の名称にリトアニア共産党創設者の一人であるヴィンツァス・カプスカス (Vincas Kapsukas) の名が冠されヴィリニュス国立ヴィンツァス・カプスカス記念大学(リトアニア語: Vilniaus valstybinis Vinco Kapsuko universitetas)となり、その後1971年には大学に労働赤旗勲章が送られ、さらに1979年に民族友好勲章が送られたため、その後1990年までの大学の正式名称はヴィリニュス労働赤旗勲章および民族友好勲章授与国立ヴィンツァス・カプスカス記念大学(リトアニア語: Vilniaus Raudonos darbo vėliavos ordino ir Tautų draugystės ordino valstybinis Vinco Kapsuko universitetas)であった[12]。
1990年3月11日、リトアニアが独立回復を宣言すると、ヴィリニュス大学は自治権を取り戻した。1991年からは大学大憲章(ラテン語: Magna Charta Universitatum)にも調印している。また現在は欧州大学協会(英語: European University Association、略称: EUA)やバルト地域大学学長協議会(英語: Conference of Baltic University Rectors、略称: CBUR)の正会員でもある。
1999年、外国語研究所 (Užsienio kalbų institutas) が文献学部から独立。
(1976). Vilniaus Universiteto istorija 1579–1803. Vilnius.
(1977). Vilniaus Universiteto istorija 1803–1940. Vilnius.
(1979). Vilniaus Universiteto istorija 1940–1979. Vilnius.
Kosman, M. (1981). Uniwersytet Wileński 1579–1979. Wrocław.
Łossowski, Piotr (1991). Likwidacja Uniwersytetu Stefana Batorego przez władze litweskie w grudniu 1939 roku. Warszawa: Interlibro. ISBN8385161260
Mrozowska, K. (1979). Studia z dziejów Uniwersytetu Wileńskiego 1579–1979. Kraków.
Trenin, Dmitriĭ (2002). The End of Eurasia: Russia on the Border between Geopolitics and Globalization. Washington D.C.: Carnegie Endowment. ISBN9780870031908
Venclova, Tomas (1981). “Four Centuries of Enlightenment: A Historic View of the University of Vilnius, 1579-1979”. Lituanus27 (2). ISSN0024-5089.
Zinkevičius, Zigmas (1988). Lietuvų kalbos istorija (Senųjų raštų kalba). Vilnius: Mintis. ISBN5420001020