レスリー・グラハム

レスリー・グラハム
画像募集
グランプリでの経歴
国籍 イギリスの旗 イギリス
活動期間 1949 - 1953
チーム AJSMVアグスタ
レース数 33
チャンピオン 500cc - 1949
優勝回数 8
表彰台回数 19
通算獲得ポイント 145
ファステストラップ回数 5
初グランプリ 1949 500cc マン島TT
初勝利 1949 500cc スイスGP
最終勝利 1953 125cc マン島TT
最終グランプリ 1953 500cc マン島TT
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レスリー・グラハム(Robert Leslie (Les) Graham、1911年9月14日1953年6月12日)は、1930年代から50年代前半に掛けて活躍したイギリス出身のオートバイレーサー。彼はロードレース世界選手権500ccクラス初代チャンピオンである。

生涯

キャリア初期

レスリーは、リヴァプール市のダートトラックレース場・スタンリースピードウェイでキャリアの口火を切った。1929年にはオスウェストリー(en)のレースに中古のDot-JAPマシンで出場し、2位となった。その後ルッジ・ウィットウォース(en)に乗り活躍を見せた。

1936年、レスリーはOK-Supreme社製250ccOHCエンジンのオートバイを入手した。これは既に型落ちの安価品だったが、彼はこれに手を加え同年のアルスターGPに出場した。しかし、サーキットを一周したところでエンジンが焼きついてしまった。しかし挫けず、翌年には改造を施してノースウエスト200(en)にエントリーし、最終的にはエンジンバルブのギア破損のためリタイアしたが、一時トップを快走して見せた。修理はドニントンで行われた次のレースに間に合い、レスリーは優勝を遂げた。

この活躍に眼をつけたOK-Supreme創設者の息子ジョン・ハンフリーズは、レスリーをOHCエンジン製作担当兼レーサーとして採用した。程なく、レスリー・グラハム、アンディ・マッケイ、ジョン・ハンフリーズの三人はミッドランド(en)で名を馳せたOK-JAPライダーとなった。サウスイースト・チャンピオンシップ、ギアボックスの故障で惜しくもリタイアするまで2位を疾走した1939年のマン島TTレースなどでレスリーは活躍を見せた。そんな彼に注目していたジョック・M・ウエスト(当時BMW社員)は、レスリーと1940年の契約を交わし、ベロセットのオートバイに乗る事になった[1]。だが、第二次世界大戦が勃発し、この契約は実行されなかった。

大戦中

レスリーはイギリス空軍に召集され、166戦隊に所属するパイロットとなった。アブロ ランカスターを操縦してドイツ上空を飛行するなどの兵役に服し、1944年12月には大尉に昇進して空軍殊勲十字章(en)を授かった[2]。その後1946年に退役するまで、彼は輸送部隊に属した。

レース界への復帰と活躍

戦争が終結すると、空軍中佐として大英帝国勲章も授与されていたJ.M.ウエストは、AMC(en)の販売担当兼レーサーとしてレスリーを誘い[1]、レースの世界に呼び戻した。AMC傘下のAJSレーシングチームに属し、1946年にキャドウェルパーク・サーキット(en)で開催された戦後初のレースに出場。ノートン350ccマシンで疾走し彼は優勝した。

1947年にはマン島セニアTTにAJS『Porcupine』で出場したが、結果は9位で終わった[3]。翌年にはジュニアTTで7位に入った[4]が、セニアTTはリタイタで終えた。この年、アウトドモーロ・デ・リナス・モントレ(en)でレスリーはウエストやフランス人ライダーのGeorges Monneretとともに、18個の世界最高速度記録を更新した。

1949年に開催された第1回ロードレース世界選手権にレスリーはAJSからエントリーした。第1戦マン島レースでは、最初のラップで後続を90秒も引き離す快調ぶりを見せつけた。しかしながら、残り数マイルという所でメカニカルトラブルが発生してしまう。だがレスリーは諦めず、マシンを押してフィニッシュラインに向かい、レースを9位で終えた。レスリーは続くブレムガルテンで開催された第2戦スイスGPでは優勝、第3戦オランダGPは2位と順調にポイントを重ねた。第4戦ベルギーこそリタイアに終わったが、第5戦アルスターで再び勝利を掴み、ファーステストラップも記録した。最終戦イタリアGPでは地元の英雄でありポイントを競うジレラネッロ・パガーニに優勝をさらわれ勝利数で並ばれたが、総得点で2点上回り、レスリーは500ccクラス最初のチャンピオンとなった[5]

1950年は、ジレラを駆るイタリア人ウンベルト・マセッティと、台頭著しいノートンジェフ・デュークの後塵を拝し、500ccクラスランキング3位に終わった。この年、ダブルエントリーしていた350ccクラスでも成績は1勝・ランキング3位だった。

1951年、一向に開発が進まないAJSに不満を募らせていたレスリーは、ドメニコ・アグスタ伯爵の求めに応じイタリアMVアグスタに乗った。当時のMVアグスタ500ccは、馬力に欠き、扱いづらい操作性から「手に負えない代物」との悪評を受けていたが、開発能力の高いレスリーの手腕によって同年500ccクラス2位を得た。ただし、更に評判が悪い350ccへの搭乗は避け、同クラスにレスリーはベロセット『MkVIII KTT 350』で出場した。彼は、スイスGPを制し年間ランキング6位を得た[6]。なお、レスリーは125ccクラスにも出場したが、こちらは8位で終わった。

1952年のシーズン500ccクラスでは、レスリーは第1戦でポイント獲得に失敗。第2戦ではギアの操作ミスや馬力不足が祟り、アイルランド人のレグ・アームストロング後塵わずか33.4秒及ばなかった。ゴール時、アームストロングはドライブ・チェーンが外れるアクシデントに見舞われていたが、不幸にもレスリーは追いつけなかった。以後、第3・4戦でもノーポイント。第5戦ドイツGPではファーステストラップを記録したが4位。第6戦でもファーステストラップを刻むが、ダンロップタイヤにトラブルが生じノーポイントと苦戦が続いた。だが、第7戦のイタリアGPでは、モンツァに押しかけた熱狂的な観客の声援に支えられ、MVアグスタ初の優勝とファーステストラップ記録を同時に成し遂げた。続く第8戦も勝利し、彼はジレラウンベルト・マセッティに次ぐ2位でシーズンを終えた。なお、250ccクラス(ベロセット)と125ccクラス(MVアグスタ)では、それぞれ3位と4位につけた。

1953年6月12日

レスリーは選手権チャンピオン奪回の意欲に燃え、1953年のシーズン開幕を迎えた。シニアTTが500cc選手権第1戦を兼ねるマン島TTレースで、6月11日木曜日に開催された125ccのライトウェイトTTに出場した。彼はこれを勝利で飾り翌日の500ccレースに勢いをつけたが、これがレスリー最後の勝利となるとは誰も予想できなかった。

明けて12日金曜日、ジレラジェフ・デュークとの争いになるであろうと予想されていた500ccクラスは開幕した。高速で疾走中、突然レスリーはコントロールを失った。ブレイヒル(Bray Hill)のふもとに衝突し乗り上げた時には、レスリーは即死状態だった。カルロ・バンディローラらMVアグスタチームのメンバーは哀悼の意を示し、この年の選手権出場から撤退した[7]

事故の原因については、ステアリングの破損によるもの、ジェフ・デュークから40秒遅れのピットサインに動揺したため、アールズフォークタイプのフロントサスペンションを使用したため、など諸説あるがはっきりしたことはわかっていない[8]。現在、マン島にはグラハムの記念碑が立っている。

戦歴

ロードレース世界選手権

1949年のポイントシステム
順位 1 2 3 4 5 ファステストラップ
ポイント 10 8 7 6 5 1
1950年から1968年までのポイントシステム
順位 1 2 3 4 5 6
ポイント 8 6 4 3 2 1
  • 凡例
  • ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
クラス チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ポイント 順位 勝利数
1949 350cc AJS IOM
NC
SUI
2
NED
-
BEL
-
ULS
-
8 7位 0
500cc AJS IOM
10
SUI
1
NED
2
BEL
-
ULS
1
ITA
6
30 1位 2
1950 350cc AJS IOM
4
BEL
-
NED
-
SUI
1
ULS
-
ITA
2
17 3位 1
500cc AJS IOM
4
BEL
-
NED
-
SUI
1
ULS
2
ITA
-
17 3位 1
1951 125cc MVアグスタ SPA
-
IOM
NC
NED
3
ULS
-
ITA
-
4 8位 0
350cc ベロセット SPA
2
SUI
1
IOM
10
BEL
-
NED
-
FRA
-
ULS
-
ITA
-
14 6位 1
500cc MVアグスタ SPA
-
SUI
-
IOM
NC
BEL
-
NED
-
FRA
-
ULS
-
ITA
-
0 - 0
1952 125cc MVアグスタ IOM
-
NED
-
GER
-
ULS
-
ITA
3
SPA
2
10 4位 0
250cc ベロセット SUI
3
IOM
4
NED
-
GER
-
ULS
3
ITA
-
11 3位 0
350cc ベロセット SUI
-
IOM
NC
NED
-
BEL
6
GER
-
ULS
-
ITA
-
1 13位 0
500cc MVアグスタ SUI
-
IOM
2
NED
-
BEL
-
GER
4
ULS
-
ITA
1
SPA
1
25 2位 2
1953 125cc MVアグスタ IOM
1
NED
-
GER
-
ULS
-
ITA
-
SPA
-
8 5位 1
350cc MVアグスタ IOM
NC
NED
-
BEL
-
FRA
-
ULS
-
SUI
-
ITA
-
SPA
-
0 - 0
500cc MVアグスタ IOM
NC
NED
-
BEL
-
GER
-
FRA
-
ULS
-
SUI
-
ITA
-
SPA
-
0 - 0

脚注

  1. ^ a b The Les Graham Story(「Les Graham - The Unassuming World Champion」からダウンロードしたファイル3/6)” (英語). Classic Motorcycling Legends(The Bike Museum). 2008年1月12日閲覧。Classic MV Agusta : Library of Downloadable Files(ファイル一覧)
  2. ^ Looking for information on Robert Leslie Graham, pilot with 166 Squadron” (英語). HellZaPoppin. 2007年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年1月12日閲覧。
  3. ^ 1947 Senior TT” (英語). IOMTT. 2007年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年6月28日閲覧。
  4. ^ 1948 Junior TT” (英語). IOMTT. 2007年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年6月28日閲覧。
  5. ^ MotoGP & GP 500 World Champions” (英語). MotorSportsEtc. 2006年6月28日閲覧。
  6. ^ Lot 381: 1948 Velocette 348cc KTT MkVIII Racing Motorcycle” (英語). ClassicCarsMagazine. 2006年6月28日閲覧。[リンク切れ]
  7. ^ The Les Graham Story(「Les Graham - The Unassuming World Champion」からダウンロードしたファイル6/6)” (英語). Classic Motorcycling Legends(The Bike Museum). 2008年1月12日閲覧。Classic MV Agusta : Library of Downloadable Files(ファイル一覧)
  8. ^ マイケル・スコット『The 500cc World Champions』ISBN 978-4-900843-53-0 より

外部リンク

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