レイポン (USS Lapon , SS-260) は、アメリカ海軍 の潜水艦 。ガトー級潜水艦 の一隻。艦名はスペイン語 で毒針を持つカサゴ目 の総称に因む。なお、退役から10年後にスタージョン級原子力潜水艦 13番艦として2代目「レイポン (SSN-661) 」が就役している。
スピニースロート・スコーピオンフィッシュ(Lapon aleta baja)
プレイヤー・スコーピオンフィッシュ(Lapon diablo)
艦歴
「レイポン」はコネチカット州 グロトン のエレクトリック・ボート 社で起工する。1942年10月27日にジェシー・B・オルデンドルフ夫人(ジェシー・B・オルデンドルフ 少将 の妻)によって進水し、艦長オリヴァー・G・カーク少佐(アナポリス 1929年組)の指揮下1943年1月23日に就役する。ロングアイランド・サウンド (英語版 ) での公試と訓練を完了すると、5月4日にニューロンドン を出航し、6月1日に真珠湾に到着した。
第1、第2の哨戒 1943年6月 - 11月
6月24日、「レイポン」は最初の哨戒で「プランジャー (USS Plunger, SS-179 ) 」「パーミット (USS Permit, SS-178 ) 」とともにオホーツク海 および北海道 を経て、日本の裏庭ともいえる日本海 に向かった。7月4日夜、3艦は機雷の敷設された宗谷海峡 を浮上したまま通過し侵入した。彼らにはそれぞれ張り付く海域が定められており、「レイポン」が向かったのは朝鮮半島 の南東部沿岸であった。しかし、この海域は深い霧 に包まれており、7月8日に北緯39度22分 東経129度48分 / 北緯39.367度 東経129.800度 / 39.367; 129.800 の地点でレーダー で船舶のようなものを探知し魚雷を4本発射して爆発を確認したが、何も起こらなかった。日本海ではこの他に7月11日には2隻のサンパン に対して浮上砲戦を行い、75トン級サンパンを撃沈した他は攻撃の機会はなく、来た道を引き返した。しかし、燃料と魚雷にまだ余裕があったので、日本の東岸沖を南下して東京湾 の近くに向かった。7月23日には、北緯34度28分 東経140度58分 / 北緯34.467度 東経140.967度 / 34.467; 140.967 の地点で空母 と駆逐艦 を発見し攻撃態勢に入ったが、逆に発見されて制圧され、その間に空母はどこかに去っていった。8月4日、41日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
これ以降、8月には「プランジャー」と「ワフー (USS Wahoo, SS-238 ) 」、9月から10月には「ワフー」と「ソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276 ) 」が日本海で作戦し、間を置いて1945年に入ってからバーニー作戦 で9隻が作戦を行い、多くのアメリカ潜水艦が日本海で活動するようになった。しかし、艦長の座をローウェル・T・"スターミー"ストーン中佐(アナポリス1929年組)に譲って「レイポン」を去ったカーク少佐は、レイポンでの最初で最後の戦闘報告を次のように締めくくった。「このパトロールは不毛で失望した」。
9月26日、「レイポン」は2回目の哨戒で日本近海に向かった。10月12日朝、北緯34度03分 東経136度49分 / 北緯34.050度 東経136.817度 / 34.050; 136.817 の地点でレーダーにより4つの大きな目標と1つの小さな目標からなる西航の輸送船団を探知[ 16] 。魚雷を4本発射して2つの爆発を確認したが、実際には被害はなかった[ 16] [ 17] 。翌10月13日にも北緯34度32分 東経137度55分 / 北緯34.533度 東経137.917度 / 34.533; 137.917 の地点で5隻の輸送船団を発見し、魚雷を4本発射したものの、これも命中しなかった。10月18日10時、北緯33度59分 東経136度24分 / 北緯33.983度 東経136.400度 / 33.983; 136.400 の三重県 三木崎灯台東方22kmの海域で第8017甲船団を発見、魚雷を3本発射して1本が輸送船「大忠丸 」(大阪商船 、1,907トン)の船尾に命中して轟沈させた[ 20] 。10月20日にも、北緯31度29分 東経137度28分 / 北緯31.483度 東経137.467度 / 31.483; 137.467 の地点で「吹雪型駆逐艦 」に護衛された「平安丸 型輸送船」を発見[ 21] 。魚雷を4本発射し、2つ爆発があったが、何の変化も見られなかった。10月21日夜には北緯33度32分 東経135度58分 / 北緯33.533度 東経135.967度 / 33.533; 135.967 の地点で輸送船団を発見して魚雷を4本発射するも、この攻撃では爆発すらなかった。10月23日昼、「レイポン」は北緯34度34分 東経137度39分 / 北緯34.567度 東経137.650度 / 34.567; 137.650 の地点で「千鳥型水雷艇 」に護衛された輸送船を発見し、最後に残った魚雷を5本発射。しかし1つの爆発を確認した以外、変化はなかった。11月4日、39日間の行動を終えて真珠湾に帰投。「H.O.R.エンジン搭載艦は1隻残らず、暫時エンジンを換装するように」という合衆国艦隊 司令長官兼海軍作戦部長 アーネスト・キング 大将 の命令により、該当艦である「レイポン」もメア・アイランド海軍造船所 に回航されてGM社製278A16気筒エンジンに換装した。
第3、第4、第5の哨戒 1944年1月 - 8月
「レイポン」の艦橋部
1944年2月13日、「レイポン」は3回目の哨戒で南シナ海 に向かった。3月8日午後、北緯19度24分 東経116度09分 / 北緯19.400度 東経116.150度 / 19.400; 116.150 の香港 南東380km地点でタサ08船団を発見。魚雷を4本発射し、輸送船「豊国丸 」(日本製鐵 、5,792トン)に魚雷が命中して航行不能に陥らせた。「豊国丸」は香港に向かうこととなり、輸送船「日鈴丸 」(日産汽船、5,396トン)が曳航したが、「レイポン」は翌2月9日未明北緯19度44分 東経115度52分 / 北緯19.733度 東経115.867度 / 19.733; 115.867 の地点で両船に対して魚雷を3本ずつ発射し、反転してさらに魚雷を4本発射。魚雷は「日鈴丸」に命中して撃沈し、曳航船を失った「豊国丸」も漂流した後沈没した。3月10日朝には北緯19度27分 東経118度23分 / 北緯19.450度 東経118.383度 / 19.450; 118.383 の地点で浮上砲戦で25トン漁船 を破壊。翌3月11日、北緯19度45分 東経120度13分 / 北緯19.750度 東経120.217度 / 19.750; 120.217 の地点で2つの大型マストを発見。さらに観測すると、相手は2隻の「山城型戦艦 」と空母 、重巡洋艦 を含む艦隊だった。リンガ泊地 に向かう空母「瑞鶴 」、戦艦 「金剛 」および「榛名 」、重巡洋艦「最上 」からなる艦隊[ 34] は「レイポン」に気づかず、また「レイポン」も「瑞鶴」におよそ5,000ヤード、「最上」に3,200ヤードにまで接近したが攻撃はできず、艦隊をやり過ごしてから浮上して情報を打電した。3月15日にも北緯19度57分 東経119度45分 / 北緯19.950度 東経119.750度 / 19.950; 119.750 の地点で75トン漁船を発見して浮上砲戦で破壊。3月16日夜、北緯18度14分 東経117度44分 / 北緯18.233度 東経117.733度 / 18.233; 117.733 の地点でタマ11A船団を発見し、魚雷を6本発射[ 37] [ 38] [ 39] 。爆発を3つ確認したものの、実際には、魚雷は特設運送船「國川丸 」(川崎汽船 、6,863トン)に向かっていったが、命中しなかった[ 38] [ 39] 。3月17日夜には北緯19度00分 東経117度30分 / 北緯19.000度 東経117.500度 / 19.000; 117.500 の地点でヒ48船団 を発見。3月18日未明にいたり、北緯19度24分 東経116度50分 / 北緯19.400度 東経116.833度 / 19.400; 116.833 の地点で魚雷を4本発射し、特設運送船「北陸丸 」(大阪商船、8,365トン)に2本目から4本目の魚雷が命中し、北陸丸は大爆発を起こして轟沈した。4月1日、47日間の行動を終えてフリーマントル に帰投した。
4月25日、「レイポン」は4回目の哨戒で南シナ海に向かった。5月13日、北緯05度34分 東経108度37分 / 北緯5.567度 東経108.617度 / 5.567; 108.617 の地点でタウィタウィ に向かう小沢治三郎 中将 率いる第一機動艦隊 の一隊を発見し、空母の姿をスケッチに留めた。5月23日夜には、マニラ からサイゴン に向かう輸送船団を発見し魚雷を6本発射するも全て外れ、これを見た陸軍輸送船「うゑいるず丸 」(川崎汽船、6,586トン)が警戒汽笛を鳴らした。2時間後に二度目の攻撃を行い、北緯07度30分 東経109度08分 / 北緯7.500度 東経109.133度 / 7.500; 109.133 の地点で魚雷を4本発射して2本が海軍徴傭船「備前丸 」(日本郵船 、4,667トン)に命中して撃沈。「うゑいるず丸」にも魚雷が向かってきたが、今回も回避に成功した。2時間置いて三度目の攻撃に入り、北緯07度20分 東経109度03分 / 北緯7.333度 東経109.050度 / 7.333; 109.050 の地点で魚雷を4本発射して、「うゑいるず丸」に全て命中させ撃沈した。四度目の攻撃で残る輸送船に対して魚雷を6本発射し、2本が命中したと判断された。やがて護衛の駆潜艇 が制圧したが、「レイポン」は全力で逃げて何事もなかった。5月27日朝、北緯07度45分 東経108度30分 / 北緯7.750度 東経108.500度 / 7.750; 108.500 の地点で潜水艦「伊168 」を発見し、魚雷を2本発射したが命中せず、相手は去っていった。6月6日、42日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
6月29日、「レイポン」は5回目の哨戒で南シナ海に向かった。7月14日、ミリ 近郊バラム岬近海で「球磨型軽巡洋艦 」と「吹雪型駆逐艦 」あるいは「初春型駆逐艦 」と目される艦艇を発見したが、攻撃はできなかった。7月17日夜には北緯08度00分 東経114度38分 / 北緯8.000度 東経114.633度 / 8.000; 114.633 のボルネオ島 西岸で輸送船団を発見し、魚雷を6本発射するも命中しなかった。次いで艦尾発射管から魚雷を4本発射し、2つの命中を確認[ 53] 。三度目の攻撃でも魚雷を4本発射し、2つの命中があったとされた[ 54] 。一連の攻撃でレイポンは特設測量艦「第三十六共同丸 」(阿波国共同汽船 、1,499トン)と、特設駆潜艇「加茂丸 」(日本海洋漁業 、234トン)および「鞍馬丸 」(日本海洋漁業、233トン)を撃沈した[ 55] [ 56] [ 注釈 1] 。7月31日夜には、北緯08度50分 東経116度00分 / 北緯8.833度 東経116.000度 / 8.833; 116.000 のパラワン島 南西部でシマ02船団を発見し、船団の中に割って入って魚雷を計9本発射。魚雷はタンカー「天心丸 」(日本油槽船、5,061トン)と輸送船「日永丸」(日本郵船 、5,397トン)に命中し、「天心丸」を撃沈して「日永丸」を撃破した[ 58] 。8月10日、42日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がドナルド・G・バール少佐(アナポリス1937年組)に代わった。
第6、第7の哨戒 1944年9月 - 1945年1月
9月4日、「レイポン」は6回目の哨戒で「フラッシャー (USS Flasher, SS-249 ) 」および「ボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223 ) 」とウルフパック を構成し南シナ海に向かった。9月21日朝、「レイポン」は病院船 を発見したが、当然ながら攻撃するわけには行かず見送った。その日の午後、いくつかの煙を発見し、輸送船団と判断してこれに向かった。目標である輸送船団であるマタ27船団 に近づいたとき、第38任務部隊 (マーク・ミッチャー 中将)から飛来してきた航空機がマタ27船団を攻撃し、全船を撃沈したため「レイポン」の出る幕はなかった。翌9月22日、北緯15度28分 東経118度48分 / 北緯15.467度 東経118.800度 / 15.467; 118.800 の地点でマタ27AあるいはB船団[ 注釈 2] を発見し、魚雷を6本発射。魚雷は陸軍輸送船「順源号 」(満州海運、1,610トン)に命中してこれを撃沈した[ 62] 。9月27日には北緯15度45分 東経117度49分 / 北緯15.750度 東経117.817度 / 15.750; 117.817 の地点でミマ11船団 を発見し、「フラッシャー」と協力して攻撃した。「フラッシャー」が8時27分に「うらる丸 」(大阪商船、6,375トン)を撃沈した後、「レイポン」もその2時間後に北緯15度50分 東経117度41分 / 北緯15.833度 東経117.683度 / 15.833; 117.683 の地点で魚雷を6本発射し、応急タンカー「北喜丸 」(北川産業、5,599トン)に命中させて撃沈した。「レイポン」はルソン島 沖で哨戒を続け、10月5日午後には新たな輸送船団を発見。しかし、護衛艦の隙をうかがうも、上空を哨戒していた九六式陸上攻撃機 が威嚇のためしばしば降下してくるので、攻撃の機会を逸した。10月10日には北緯16度10分 東経119度45分 / 北緯16.167度 東経119.750度 / 16.167; 119.750 の地点でタマ29船団 を発見し、魚雷を4本発射。陸軍輸送船「江尻丸 」(日本郵船、6,968トン)の右舷に魚雷が2本命中し、「江尻丸」は大火災を発生して付近の浅瀬 に座礁 する同時に大爆発を起こした上、夕刻に沈没した。その後は、ルソン島各地を空襲する第38任務部隊機の援護任務に従事し、10月21日まで同海域にとどまった。10月31日、56日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
11月23日、「レイポン」は7回目の哨戒でルソン島近海に向かった。日本軍がレイテ島 やミンドロ島 に増援部隊を送りこむため、その阻止をするため念入りに見張った。しかし、航空機はよく発見したものの敵船はあまり発見できなかった。12月18日、煙を発見するが、よく観測してみると相手は病院船だった。病院船を見送った直後、北緯14度08分 東経118度03分 / 北緯14.133度 東経118.050度 / 14.133; 118.050 の地点でレーダーが複数の目標を探知。戦闘配置を発令して目標を追跡し、日付が12月19日に変わった直後に魚雷を6本発射。直ちに反転して魚雷を3本発射し、やがて閃光が見えたものの戦果はなかったと判定された。その後、アメリカ軍の上陸予定地点であるリンガエン湾 を偵察し、1945年1月4日に針路をサイパン島 タナパグ港 に向ける。2日後に寄港地はグアム アプラ港 に変更され、1月10日に到着した。1945年1月21日、56日間の行動を終えて真珠湾に帰投。4日後にメア・アイランド海軍造船所に回航された。1月31日に到着し、オーバーホール に入る。4月22日、オーバーホールが終わると真珠湾に移動し、1カ月間滞在した。
第8の哨戒 1945年5月 - 8月
5月23日、「レイポン」は8回目の哨戒でトラック諸島 方面と日本近海に向かった。6月4日にアプラ港に到着し、6月6日に出撃。6月19日まではトラック近海での救助任務にあてられる。6月20日から24日まではアプラ港に停泊し、6月24日にはタナパグ港に移る。6月27日からの後半の哨戒では、日本本土を攻め立てるウィリアム・ハルゼー 大将 率いる第3艦隊 およびB-29 、B-24 などの搭乗員に対する援護任務が命じられていた。鳥島 近海に進出し援護任務に従事。その後、7月12日から14日まではタナパグ港で仮修理を行った。7月23日、60日間の行動を終えてミッドウェー島 に帰投した。
「レイポン」は、8月15日出撃の予定で9回目の哨戒が計画されていたが、その出撃予定日に戦争が終結した。
戦後・ギリシャ海軍「ポセイドン」として
戦争が終わると、「レイポン」は8月26日に大西洋岸へ向けて帰途に就いた。9月20日にニューオーリンズ に寄港した後、テキサス州 の2つの都市・ガルベストン とヒューストン にも立ち寄った後、11月4日にニューヨーク州 スタテンアイランド に到着し、1946年1月8日まで滞在した後、ニューロンドンに凱旋。その後、7月25日に退役して大西洋予備役艦隊入りした。
1957年4月13日にポーツマス海軍造船所 で再就役した「レイポン」は8月10日に退役した。8月8日に相互防衛援助プログラムの下のギリシア海軍 へ貸与され、「ポセイドン (HS Poseidon, S-78 ) 」と改名され活動した。「ポセイドン」は、姉妹艦のための予備部品として使用されるため、1976年4月にギリシア によって完全に購入され、現役勤務から退き、1975年12月31日に除籍された。
「レイポン」の総撃沈トン数は53,443トンに上る。レイポンは第二次世界大戦 の戦功で海軍殊勲部隊章と4個の従軍星章を受章した。第3、第4、第5、第6回目の哨戒が成功として記録された。
脚注
注釈
^ #Roscoe p .542 では、加茂丸と鞍馬丸の撃沈はカウントされていない。
^ #一護1909p .50 ではマタ27B船団、#夕月pp .9-10ではマタ27A船団。
出典
^ a b #紀伊防1810p .30
^ #SS-260, USS LAPONp .37,57
^ #紀伊防1810pp .34-35
^ #SS-260, USS LAPONp .40,54,58
^ #十戦1903pp .19-20, pp.38-40
^ #一護1903p .75
^ a b #一護1903p .75
^ a b #國川丸1903pp .5-6
^ #SS-260, USS LAPONp .151,162
^ #SS-260, USS LAPONp .151,163
^ “The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter VI: 1944 ” (英語). HyperWar. 2012年6月10日 閲覧。
^ #特設原簿p .98,100
^ #一護1907p .37
^ #一護1909p .50
参考文献
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外部リンク