ポーランド立憲王国の憲法(ポーランド語: Konstytucja Królestwa Polskiego)は1815年にウィーン会議で具体的に明記されたようにポーランド国王アレクサンデル1世の下で新たに再建されたポーランドに憲法を公布することを義務づけられたアレクサンデル1世によりポーランド立憲王国に認可された。当時最も自由主義的憲法の一つとみなされたが、政府からは十分に尊重されることはなかった。11月蜂起で革命政府により修正され、その後勝利を得たロシア当局により放棄された。
ウィーン会議はポーランド国王としての立場でロシアのアレクサンドル1世皇帝にロシアの統治下で新たに再建されたポーランドに憲法を公布することを課した[1]。新しい国家は以前のワルシャワ公国より小さくポーランド・リトアニア共和国より更に小さくポーランド史上最も小さい国の一つとなる[2]。事実上ポーランド王国を建国するウィーン会議であったために、非公式にはポーランド立憲王国(Kongresówka)として知られることになった[2]。
1815年11月27日にツァーリにより署名された。欽定憲法であり議会が議決することのないconstitution octroyéeであった[2]。
条文はツァーリ自身と助言者により編集されたが、憲法に対する重要な寄与者はアダム・チャルトリスキであった[3]。他の自由の中でも言論の自由と宗教的寛容さ(英語版)を約束する憲法はポーランド啓蒙思想(英語版)とロシア啓蒙思想(英語版)の思想の多くを映し出す当時の最も自由主義的な憲法に含まれると考えられている[3]。しかしワルシャワ公国として当時のポーランド王国の一部となった土地を統治する文書であるワルシャワ公国憲法(英語版)と比べて貴族(シュラフタ)を優先させユダヤ系ポーランド人や農民に与えられた一部の権利を廃止した。ロシア当局からは十分に尊重されることはなく、政府から無効にされ侵害されながら自由主義的だが不明瞭な規定は益々操作されることになった[2][3][4][5]。議会は2年ごとに召集されることを前提とされたが、自由主義的代議士と保守的な官吏の間で多くの衝突の場となると、実際は4回召集されただけであった(1818年、1820年、1826年、1830年。最後の2回は秘密会であった)。他の要因と共に約束された権利に対するこの軽視はポーランド国内で不満を増大させることになり、結局結果的に1830年の失敗に終わる11月蜂起となった[6]。憲法は蜂起の最中に修正され、その結果として憲法はツァーリニコライ1世により認可され施行されることのなかった更に保守的なポーランド王国基本法(英語版)に1832年2月26日に取って代わられた[3][4]。
憲法は7章165条あった[2]。
ポーランド王国は共通の外交政策を持つロシア帝国との同君連合の立憲君主制であった。ロシア皇帝はポーランド国王でもあった。議会や軍隊、行政、司法は別個のままであった。
国王は3機関(行政機関、立法府、司法府)全ての代表であった。
ナメストニクが代表を務めながら5人の大臣と国王から推薦された人々で構成された。
大臣や評議員、国務大臣、参考人、国王から推薦された人々からなり、下記の特権がある。
議会は国王と上院、下院からなっていた。128人を数えた代議士は2年ごとに3分の1が選出されながら6年の任期があった。法的な特権があった。投票権は21歳以上の全員にあった。候補者は読み書き一定の財産がなければならなかった。軍人に投票権はなかった。議会は2年ごとに30日間召集された。セイムは文民や行政、法律上の問題について投票する権利があった。国王の許可を得て会計制度や軍事に関連する事項について投票できた。官吏を管理し請願を提出する権利があった。64人を数えた上院は9人のキリスト教の監督やヴォイヴォダ、城主とロシアの「王家の王子」から成っていた。御前会議として活動し、戸籍を管理する権利があり、議院としての同様の立法権があった。