ペドロ2世(西:Pedro II, 1174年7月 - 1213年9月12日)は、アラゴン王およびバルセロナ伯(在位:1196年 - 1213年)。アルフォンソ2世と王妃サンチャ(カスティーリャ王アルフォンソ7世と王妃リキルダの娘)の子。ローマで教皇に戴冠してもらったことからカトリック王(el Católico)と呼ばれる[1]。カタルーニャ語名ではペラ2世(Pere II, バルセロナ伯としては1世)。
生涯
1196年に即位した時、母方の従兄で父の盟友だったカスティーリャ王アルフォンソ8世がレオン王アルフォンソ9世とナバラ王サンチョ7世に東西から挟撃され苦境に立たされていた。前年(1195年)にムワッヒド朝アミールのヤアクーブ・マンスールにアラルコスの戦いで大敗したことが背景にあったが、ナバラと国境紛争を抱えるペドロ2世はアルフォンソ8世を支援、1198年にアルフォンソ8世と共にナバラへ侵攻、サンチョ7世をカスティーリャに屈服させた。1209年、対ムワッヒド朝へ十字軍結成を考える教皇インノケンティウス3世の意向を受けたトレド大司教(英語版)ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダの仲裁でサンチョ7世と和睦した[2]。
1210年からレコンキスタに力を入れ、バレンシアの国境要塞をいくつか奪い、翌1211年にアルフォンソ8世と会見してムワッヒド朝に対するカスティーリャへ協力を約束、1212年にアルフォンソ8世、サンチョ7世と共にナバス・デ・トロサの戦いに参戦、ムワッヒド朝アミール・ムハンマド・ナースィルを打ち破った[3]。
しかし、フランス南部の領土をめぐってフランスの諸侯と対立し、シモン・ド・モンフォールに息子ハイメ(妃マリア・デ・モンペリエとの間の一人息子、後のハイメ1世)を差し出すことで戦争を回避しようとしたが、結局はアルビジョア十字軍と正面対決することになる(カタリ派に荷担したとされ教皇より破門もされている[4])。1213年、トゥールーズ郊外ミュレの戦いにおいて戦死した[5]。無謀にも自ら先陣を切って敵軍に突撃したと伝えられ、後に曾孫のハイメ2世は「狂気の沙汰だ」と記している[6]。
母が埋葬されているシヘーナ修道院 (en) に埋葬されたが、異端としてその場所は墓地エリア外とされた[4]。1217年2月、代替わりした教皇ホノリウス3世により遺骸は修道院内に移葬された[7]。その場所は母の棺の隣であった[7]。
子女
1204年にモンペリエ領主ギレム8世の娘で女子相続人のマリア・デ・モンペリエと結婚した[8]。マリアの母はビザンツ皇女エウドキア(マヌエル1世の姪)であり、マリアはこの結婚の前に2度の離婚歴があった[9]。1男をもうけた。
- ハイメ1世(1208年 - 1276年) - アラゴン王(1213年 - 1276年)
脚注
- ^ 田澤、P62。
- ^ ローマックス、P165、芝、P132 - P134。
- ^ ローマックス、P171 - P174、芝、P137 - P138、田澤、P55、関、P154。
- ^ a b 浅野、P179。
- ^ 田澤、P62 - P64、芝、P144、関、P214 - P215、尾崎、P11 - P14。
- ^ 田澤、P64。
- ^ a b La documentación pontificia de Honorio III (1216-1227), hrsg. von Demetrio Mansilla (1965), Nr. 34, S. 28.
- ^ 関、P214。
- ^ 田澤、P66、尾崎、P8。
参考文献