バッキンガム公 (バッキンガムこう、英 : Duke of Buckingham )は、かつて存在したイギリス の公爵 位の一つ。バッキンガムの名を冠した公爵位には1444年 創設のスタッフォード家所有のバッキンガム公爵位(イングランド貴族 )、1623年 創設のヴィリアーズ家 所有のバッキンガム公爵位(イングランド貴族)、1703年 創設のシェフィールド家所有のバッキンガム=ノーマンビー公爵位(イングランド貴族)、1822年 創設のグレンヴィル家所有のバッキンガム=シャンドス公爵位(連合王国貴族 )がある。いずれも剥奪されたか廃絶しており、現存していない。
歴史
1444年-1521年のバッキンガム公(スタッフォード家)
初代バッキンガム公ハンフリー・スタッフォード の紋章
はじめてバッキンガム公爵に叙される第6代スタッフォード伯爵ハンフリー・スタッフォード (1402–1460) は、幼い頃の1403年7月21日に死去した父・第5代スタッフォード伯エドワード・スタッフォード (英語版 ) から伯爵位とスタッフォード男爵 (英語版 ) 位を継承し、1420年 にはヘンリー5世 のフランス での作戦に従軍したが、1422年 の王の崩御でその遺体とともにイングランドに帰国。ヘンリー6世 の側近となり、1444年 9月14日 にバッキンガム公爵 に叙爵された[1] 。薔薇戦争 でもランカスター派としてヘンリー6世に従ったが、1460年 7月10日 のノーサンプトンの戦い でヨーク派に敗れて殺害された。
そのため、その孫の第2代公爵ヘンリー (1454–1483) はエドワード4世 から疎まれ、キャサリン・ウッドヴィル (英語版 ) との望まぬ縁組を押し付けられ、これが彼を1483年 のリチャード3世 による王位簒奪支持に追いやった。しかしそのわずか3カ月後にはヘンリー・テューダー(ヘンリー7世 )を擁立してリチャード3世に対する反乱を起こした。すぐに鎮圧され、裁判なしで私権剥奪 のうえ処刑された。
そのため、その息子の3代公爵エドワード (1478–1521) は、当初爵位を継げなかったが、ヘンリー7世がリチャード3世から王位を簒奪して即位してテューダー朝 が始まった1485年 には議会法により爵位を回復された[1] 。しかし枢機卿トマス・ウルジー から敵意を向けられ、1521年 5月には大逆罪 で私権剥奪のうえ処刑された[1] 。
1623年-1687年のバッキンガム公(ヴィリアーズ家)
初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ の紋章
ついでバッキンガム公に叙されるのはステュアート朝 のジェームズ1世 の寵臣ジョージ・ヴィリアーズ (1592–1628) である。彼はジェントリ の息子だったが、1614年 に宮廷入りしてから急速に昇進し、主馬頭 (英語版 ) や海軍卿 などの要職を歴任した。爵位も急速に昇進し、1616年 8月27日 にはヴィリアーズ子爵 (Viscount Villiers) 、バッキンガム州におけるワッドンのワッドン男爵 (Baron Whaddon, of Whaddon in the County of Buckingham) に叙位され、1617年 1月5日 にはバッキンガム伯爵 (英語版 ) に叙位された。同年3月14日 にはこの3つの爵位について自身の男系男子に次いで、同母兄弟ジョン (英語版 ) とクリストファー (英語版 ) の男系男子への継承が認められた。さらに1618年 1月1日 にはバッキンガム侯爵 (Marquess of Buckingham) に叙され、そして1623年 5月18日 にはバッキンガム公爵 とコヴェントリー伯爵 (英語版 ) (Earl of Coventry) に叙位された。1627年 8月27日 にはバッキンガム公爵位とコヴェントリー伯爵位について男系男子に次いで、娘メアリー (英語版 ) の男系男子に継承が認められた[5] 。1625年に即位したチャールズ1世 の下でも栄進し、スペイン やフランスと戦ったが、成果を得られず議会 の弾劾を受けるもチャールズ1世の介入で失脚を免れた。しかし1628年 にはイングランド軍将校ジョン・フェルトン (英語版 ) に暗殺 された。
父が暗殺された年に生まれた息子の第2代公爵ジョージ (1628–1687) は、清教徒革命 中に王党派に属して一時国外亡命し、その後帰国するもイングランド共和国 から投獄を受けた。王政復古 後にチャールズ2世 に登用されて初代クラレンドン伯爵 エドワード・ハイド の失脚に一役買い、その後カバル と呼ばれる政権の一員となった。しかしカバル政権の不評と共に議会から批判の対象となり、1674年には罷免された。また彼は1667年に母からド・ロス男爵 (英語版 ) を継承している[5] 。
1687年 4月16日 の彼の死後、帰属者未確定 (abeyance) となったド・ロス男爵を除き、全ての爵位が継承者無く廃絶した[5] 。
1703年-1735年のバッキンガム=ノーマンビー公(シェフィールド家)
1710年頃のバッキンガム・ハウス(バッキンガム宮殿 の前身)
ジョン・シェフィールド (1648–1721) は、1658年に父から第3代マルグレイヴ伯爵 (英語版 ) を継承し[6] 、チャールズ2世 や名誉革命 後のウィリアム3世 、アン女王 などに仕え、ウィリアム3世在位中の1694年 5月10日 にはノーマンビー侯爵 (Marquess of Normanby) に叙位された。特にアン女王から重用され、トーリー党 の政治家として王璽尚書 などの官職を務めた。スコットランドとの連合の委員にもなった。1703年 3月23日 にはバッキンガム=ノーマンビー公爵 に叙位された[6] 。また1702年から1703年にかけてアーリントン・ハウスを改築してバッキンガム宮殿 の前身バッキンガム・ハウスを建設した人物である。
初代公の死後、生存していた唯一の嫡出子ジョン (1716–1735) が爵位を継承したが、子供を残さずに若くして死去し保有爵位全てが廃絶した[6] 。財産の大部分は非嫡出子にあたる異母兄チャールズ・ハーバート・シェフィールド (英語版 ) にわたった[6] 。バッキンガム・ハウスも彼が相続しているが、1762年 に国王ジョージ3世 に8,000ポンドで売却しており、ジョージ3世はここを王妃シャーロット の住居とし、後にバッキンガム宮殿となった。
1822年-1889年のバッキンガム=シャンドス公(グレンヴィル家)
首相 ジョージ・グレンヴィル の息子で外務大臣 を務めた初代バッキンガム侯爵ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル の息子であるリチャード・プランタジネット・キャンベル・テンプル=ニュージェント=ブリッジス=シャンドス=グレンヴィル (1776–1839) は、1796年には第3代シャンドス公爵 ジェイムズ・ブリッジス の一人娘アンと結婚し、「テンプル=ニュージェント=ブリッジス=シャンドス=グレンヴィル」姓に改姓し、1813年 に父の死でバッキンガム侯爵 (Marquess of Buckingham) 、テンプル伯爵 (Earl Temple) 、ニュージェント伯爵 (英語版 ) (Earl Nugent) 、コバム子爵 (Viscount Cobham) 、コバムのコバム男爵 (Baron Cobham, of Cobham) を継承した後の1822年 2月4日 にバッキンガム=シャンドス公爵 (Duke of Buckingham and Chandos) 、シャンドス侯爵 (Marquess of Chandos) 、ストーのテンプル伯爵 (Earl Temple of Stowe) に叙された。このうちストーのテンプル伯爵位には、孫娘アンとその男系男子に継承可能な特別継承者の規定が付けられていた。彼の一人息子テンプル伯リチャード にはこの時点では子供が娘のアンしかいなかったためである(テンプル伯はこの翌年の1823年に男子リチャード を儲けている)[8] 。
初代公の死後、息子のリチャード (1797–1861) が2代公を継承し、彼の死後はその息子リチャード (1823–1889) が3代公を継承。3代公は保守党 政権下で枢密院議長 (在職1866年-1867年)や植民地大臣 (在職1867年-1868年)を務めた[8] 。彼の代の1868年 7月21日 にはスコットランド貴族 爵位キンロス卿 を父から継承していたことが認められた[8] 。
男子がない3代公の死後、バッキンガム=シャンドス公爵はじめ保有爵位の多くは廃絶したが、特別継承者の規定がある爵位はいくつか残った。キンロス卿は3代公の長女メアリー 、コバム子爵は親族の第5代リトルトン男爵 (英語版 ) チャールズ・リトルトン (英語版 ) 、ストーのテンプル伯爵は甥のウィリアム・ゴア=ラントン (英語版 ) がそれぞれ継承している[8] 。
歴代当主一覧
バッキンガム公 (1444年)
バッキンガム公 (1623年)
バッキンガム=ノーマンビー公 (1703年)
バッキンガム=シャンドス公 (1822年)
脚注
出典
参考文献