ネナド・マスロバル

ネナド・マスロバル
名前
愛称 マキ[1]
ラテン文字 Nenad MASLOVAR
キリル文字 Ненад Масловар
基本情報
国籍 モンテネグロの旗 モンテネグロ
生年月日 (1967-02-20) 1967年2月20日(57歳)
出身地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 コトル
身長 189cm
体重 74kg
選手情報
ポジション MF
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1987-1989 ユーゴスラビアの旗 スパルタク・スボティツァ 31 (1)
1989-1992 ユーゴスラビアの旗 ヴェレジュ・モスタル 53 (7)
1992-1994 ユーゴスラビアの旗 レッドスター・ベオグラード 60 (19)
1994-1998 日本の旗 ジェフユナイテッド市原 128 (41)
1999 日本の旗 アビスパ福岡 22 (4)
通算 294 (72)
代表歴
1997 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 3 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ネナド・マスロバルNenad Maslovar1967年2月20日 - )は、ユーゴスラビアモンテネグロ(現モンテネグロ共和国)出身の元サッカー選手。ポジションはMF。愛称はマキ[2]

経歴

ヴォイヴォディナFKスパルタク・スボティツァボスニア・ヘルツェゴビナFKヴェレジュ・モスタルを経て、1992年セルビアの名門レッドスター・ベオグラードへ移籍し、中心選手としてプレーし[2]、2シーズンを過ごした。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の戦火を逃れ、1994年7月にJリーグジェフユナイテッド市原へ移籍。1994年8月10日、2ndステージ開幕戦のガンバ大阪戦で初出場すると初ゴールも決めた[3]。当時の監督清雲栄純と対立していたMFピエール・リトバルスキーに代わり同年後期からチームの司令塔として君臨した[2]。キープ力があり[1]、左足から放たれるスルーパスと鋭く精度の高いフリーキックを武器に活躍した[4]。1995年7月1日のヴェルディ川崎戦では移籍後初の2ゴールを決めたが、延長PK戦ではPKを失敗して敗れた[5]1995シーズンには開催されたリーグ戦、全52試合にフル出場し16得点を挙げた。1996年4月20日、第9節名古屋グランパスエイト戦のボレーシュートはJリーグ30周年ベストゴールのボレー/オーバーヘッド部門にもノミネートされた[6]。この年、そして翌1997年は怪我でそれぞれ17試合に出場したのみに終わった。1997年3月8日のJリーグカップベガルタ仙台戦ではハットトリックを決めた[7]。1998年、7月15日のJリーグカップ準決勝鹿島アントラーズ戦でハットトリックを決め[7]、チームを決勝に導いたが、決勝でジュビロ磐田に敗れて準優勝に終わった[8]

ジェフとの契約終了後の1999年アビスパ福岡へ移籍、4月3日、1stステージ第5節で古巣ジェフ市原と対戦し、決勝点を含む2ゴールを決めて勝利した[9]。1999年シーズンを最後に現役生活から引退した。Jリーグ通算150試合45ゴールの成績を残した[3]

現在はモンテネグロのサッカークラブOFKグルバリ・ラダノヴィチの会長を務める。

人物

  • ジェフのチームメートであった申在範は、中村俊輔以上にボール扱いやキックの精度が優れていたと評していた[1]
  • 試合中は熱くなり、味方選手のミスに激怒することも多かったが、試合以外では優しく穏やかな人柄であったという[1]
  • ジェフ時代、試合前にはチームが用意した軽食ではなく、通常、他の選手たちは食べないステーキなどを食べて試合に臨んでいた[10]
  • アビスパ福岡移籍当初、家族をユーゴスラビアに残していたが、急遽、母国のユーゴスラビア軍とNATO軍が戦闘状態に入ったため、急いで家族を福岡に呼び寄せようとし、妻と娘たちは戦闘の合間を縫ってユーゴスラビアから車でハンガリーまで何とか脱出し、ハンガリー経由で福岡に到着した[11]
  • 娘が2人居るが、日本で誕生したこともあり、長女には「かなえ」、次女には「みのり」と日本人の名前を付けていた[11]
  • カフェを経営していて、その名前をジェフ市原から取り、"JEF"としている[12]

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ユーゴスラビア リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
1987-88 スボティツァ プルヴァ 14 1
1988-89 17 0
1989-90 モスタル 8 0
1990-91 29 2
1991-92 16 3
セルビア リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
1992-93 レッドスター プルヴァ 29 5
1993-94 31 14
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1994 市原 - J 15 4 2 0 2 1 19 5
1995 52 16 - 1 0 53 16
1996 17 4 10 3 1 0 28 7
1997 10 17 9 4 3 2 0 23 11
1998 27 8 6 6 1 0 34 14
1999 福岡 11 J1 22 4 2 0 0 0 24 4
通算 ユーゴスラビア プルヴァ 84 8
セルビア プルヴァ 60 19
日本 J1 150 45 24 12 7 1 181 58
総通算 294 72

その他の公式戦

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 3試合(1997年)[13]


ユーゴスラビア代表国際Aマッチ
出場得点
1997 3 0
通算 3 0

タイトル

脚注

  1. ^ a b c d ネナド・マスロバルに物申す”. 申在範 サッカー紀行 (2022年6月24日). 2024年2月28日閲覧。
  2. ^ a b c “ジェフ千葉、歴代最強外国籍選手5人。リトバルスキーにオッツェ、オシム時代の実力者たちも”. footballchannel.jp. https://www.footballchannel.jp/2020/04/21/post371324/3/ 2020年4月21日閲覧。 
  3. ^ a b “マスロバル”. data.j-league. https://data.j-league.or.jp/SFIX04/?player_id=1814 2020年4月21日閲覧。 
  4. ^ ジェフユナイテッド千葉の10番を背負ってきた名選手5人”. spaia. 2020年4月18日閲覧。
  5. ^ “95Jリーグサントリーシリーズ 第21節第1日”. data.j-league. https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=1336 2020年4月21日閲覧。 
  6. ^ J30 BEST AWARDS”. JLEAGUE. 2024年9月10日閲覧。
  7. ^ a b Jリーグカップ ハットトリック一覧”. data.j-league. 21 April 2020閲覧。
  8. ^ “磐田が市原を寄せ付けず大会初制覇”. Jリーグ. https://www.jleague.jp/leaguecup/2017/special/report/1998.html 2024年2月28日閲覧。 
  9. ^ Jリーグ 1stステージ 第5節”. DATAJLEAGUE. 2024年9月25日閲覧。
  10. ^ 「たった一つのゴールで人生が変わる」。廣山望は海外5カ国でプレー「価値観がひっくり返った」数々の経験”. スポルティバ (2022年11月1日). 2024年2月28日閲覧。
  11. ^ a b 日刊スポーツ 1999年3月30日 7版
  12. ^ バルカン訪問記2 ネナド・マスロバル 「親日家・マキ」の日本への憧憬
  13. ^ ネナド・マスロバル - National-Football-Teams.com

関連項目

外部リンク

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