ナザレ またはナザレト 、アン=ナースィラ (現代ヘブライ語 :
נצרת , Náẓərat ナツラット、ティベリア式ヘブライ語 :Nāṣəraṯ ナーツェラス、アラビア語 :الناصرة an-Nāṣirah , 英語 :Nazareth ナザレス、古代ヘブライ語 :Natzrat ナツラト)は、イスラエル の都市 。北部地区 の中心地である。
住民の多くがアラブ人 キリスト教徒 だが、イスラム 教徒・ユダヤ教徒 も多く住む。現在の市長 はキリスト教 マロン派 。
キリスト教徒にとっては、イエス・キリスト が幼少期から公生涯 に入るまでを過ごした土地であり、彼自身が「ナザレ人」と呼ばれたと新約聖書 にあることから、きわめて重要な場所とされる。
歴史
1917年 のナザレ
326年 、コンスタンティヌス 帝、マリアの家の址とされる場所に受胎告知教会を建設。
637年 、イスラム教徒 によるパレスチナ 地区の征服が始まり、この地区にイスラム教がもたらされる。その後の400年間で、イスラム教徒の住人の割合が増加するが、アラブ・キリスト教徒も少数派として残る。第1回十字軍 以降、パレスチナは長く争いが続き、地元のサラセン人 とヨーロッパ人による支配が幾度となく交代する。ガリラヤ とナザレの支配者も、その支配者が信仰する宗教徒を増やしながら、頻繁に入れ代わった。
1099年 、十字軍のタンクレード がガリラヤを占領し、ナザレを首都に定める。古いScythopolis 教区も、エルサレム王国 時代からの4つの大司教区の1つであるナザレ大司教 (英語版 ) の下に移される。1187年 、サラディン がヒッティーンの戦い に勝利し、街は再びイスラムの支配下となる。残った十字軍やヨーロッパ人の聖職者は、強制的に街から追い出された。
1263年 、マムルーク朝 スルタン のバイバルス が、パレスチナの地から、キリスト教徒の残党を追い払う命令の中で、ナザレにあったキリスト教徒の建築物を破壊し、キリスト教の牧師が町に立ち入ることを禁止した。ナザレにいたキリスト教徒はこの地で生き続けていたが、住民規模は縮小した。1294年 にここを訪れたキリスト教巡礼者は、岩屋を守る小さな教会しかなかったと報告している。
14世紀、フランシスコ会 の修道士の帰還と、聖堂跡地への居住が認められた。しかし、1584年 、彼らは再び立ち退かされた。1620年 、オスマン・シリア (英語版 ) の一部を支配していたFakhr-al-Din II が、修道士の帰還と、受胎告知の岩屋に小さな教会を建設することを許可した。この場への巡礼ツアーが、以前町に住んでいたフランシスコ会によって組織された。しかし修道士たちは、周囲に住むベドウィン に苦しめられていた。ベドウィンはしばしば身代金目的に誘拐を行ったためである。地元シャイフ のDaher el-Omar の治世に、彼はガリラヤの大部分をオスマン化し、1730年 にフランシスコ会の教会建築を承認した。
1799年 、ナザレはナポレオン・ボナパルト によって占領された。エジプトの将軍イブラーヒーム・パシャ の統治時代は、オスマン・シリアの大部分とナザレは、ヨーロッパ人の宣教師や貿易商に開放された。オスマン帝国 による再支配の後、ヨーロッパの勢力によりいくつかのの教育機関が建てられた。
1861年 、フランシスコ会がメンザ・クリスティ聖堂 (knessith menzah krist'i) を建設。
イスラエル建国後は最大のアラブ人住民を抱える都市のためにクネセト で最も政府と対決していたイスラエル共産党 (ラカッハ)が長らく支持を集めていた地域であり[1] 、1975年 には第四次中東戦争 後に高まった親パレスチナ 感情を受けてアラブ人共産主義 者のタウフィーク・ザイヤード (ヘブライ語版 ) がナザレの市長に就任したことは国内外で大きく注目され[2] [3] 、ザイヤードは急逝した1994年 まで市政を担い、ザイヤードの下で副市長だったハダシュ のラメス・ジャライシ (ヘブライ語版 ) が後任に選ばれ、4度当選して2013年 まで市長を務めた[4] 。
地理
施設
受胎告知教会
聖ヨセフ教会
シナゴーグ教会
メンザ・クリスティ教会
青年期のイエス大聖堂
聖ガブリエル教会
マリアの井戸
白モスク
友好都市
著名な出身者
脚注
関連項目
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外部リンク