タンクレードは善良侯オドン(Oddone di Bonmarchis)とオートヴィルのエマの間に生まれた。弟にグリエルモがいる。エマは南イタリアを征服しオートヴィル朝シチリア王国(ノルマン朝)を創始したロベルト・イル・グイスカルドとその最初の妻アルベラダ(Alberada)との間に生まれた娘である。二人の間にはエマの他にターラント公ボエモン(後のアンティオキア公ボエモン1世)が生まれている。タンクレーディはロベルトの孫、ボエモンの甥にあたる。
やがて、フランク人(十字軍国家の西洋人)とムスリムは共通の敵に対して、時と場合に応じて手を結ぶようになる。1108年、ムンキズ家が支配するシリア中部のシャイザル城での戦いでは、タンクレーディは贈物の馬を得て、兵を引き揚げている。シャイザル側の使者であった詩人ウサマ・イブン・ムンキズ Usamah ibn Munqidh)の記録では、馬を連れてきたクルド人の若者の美貌をたたえ、後に彼を捕虜にしたとしても必ず釈放しようと約束する。しかしこのアンティオキア摂政は約束をたがえ、後に彼を捕虜とした際には閉じ込めて拷問し右目をくりぬいたという[2]。シャイザルはアンティオキア公国とトリポリ伯国の中間にあたり、タンクレーディはたびたびこの城を囲んだ。1111年にはバグダードのセルジューク朝本家がシリアへ遠征軍を送った。途中シャイザルからの救援要請でセルジューク軍はアレッポからシャイザルに向かったが、タンクレーディもエルサレム王国やトリポリ伯国、エデッサ伯国に支援を要請し、シャイザルで戦った。戦いは両者引き分けに終わり、補給を断たれた十字軍国家側は撤退し、セルジューク朝側も一つも町を取り戻さないままバグダードへ退却した。タンクレーディはシャイザールの近くに城を建て、監視を行わせた。
『ゲスタ・タンクレーディ』(Gesta Tancredi)は年代記作家・カンのラウル(Raoul de Caen / Ralph of Caen)がラテン語で書いた伝記である。ラウルはノルマン人で、十字軍に参加しボエモン1世およびタンクレーディの下に仕えた。
タンクレーディを題材にした作品
タンクレードは、16世紀の詩人トルクァート・タッソの作品、『解放されたエルサレム』に登場している。タンクレーディ(タンクレード)は叙事詩的な英雄として描かれ、二人の架空の人物、異教徒の女性戦士クロリンダとアンタキア(アンティオキア)の王女エルミニアに愛されることになる。『解放されたエルサレム』は後に多くの楽曲や絵画の題材になったが、クラウディオ・モンテヴェルディは1624年に、この叙事詩の一部を使い『タンクレディとクロリンダの闘い』(Il Combattimento di Tancredi e Clorinda)を作曲した。
英語版参考文献
Robert Lawrence Nicholson, Tancred: A Study of His Career and Work. AMS Press, 1978.
Peters, Edward, ed., The First Crusade: The Chronicle of Fulcher of Chartres and Other Source Materials, (Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1998)
Hunn, Stuart - The Life and Times of Tancred (Penguin Publishing 1985)
Smail, R. C. Crusading Warfare 1097-1193. New York: Barnes & Noble Books, (1956) 1995. ISBN 1-56619-769-4