ジャラシュのローマ帝国時代の都市遺跡。楕円形のフォルム(広場)が残る
ジャラシュの南側のローマ劇場
ジャラシュ (ジェラシュ、جرش , Jerash)はヨルダン 北部の都市でジャラシュ県 の県都。首都アンマン からは北へ48kmの位置にある。ジャラシュ県の風土は多様で、標高が1,100mを超える高く寒冷な山地から、標高300mほどの肥沃な谷間などがあり、農耕が盛んである。ジャラシュの町は標高600mの丘にある。
ジャラシュは古代にはゲラサ (Gerasa)と呼ばれていた。シリア南部のデカポリス (十都市連合)のうちの一つであり、現在も古代ローマ 時代の都市遺跡がよく残っている。
2004年 の国勢調査 によれば、ジャラシュ市の人口は31,650人でヨルダン国内で14番目に人口の多い街である。ジャラシュ県の人口は153,650人で、人口密度はイルビド県 の次に高い[1] 。ジャラシュの人口の多数派はアラブ人 であるが、オスマン帝国 時代末期にロシアから逃れてきた北カフカス のチェルケス人 や、トルコ から逃れてきたアルメニア人 がヨルダンの他都市と比べ人口のうちで占める割合が若干多い。宗教はイスラム教 が多く、次いで正教会 およびカトリック のキリスト教徒 が大きな割合を占める。
新約聖書
新約聖書 マルコによる福音書 5章1節〜20節において、イエス・キリスト は嵐を越えてまで、この地を訪れている。そこにはレギオン に取り憑かれた男がおり、この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。
それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。
そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください」
イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。
そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。
ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。
彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」
イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。
豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。
そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。
見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。
すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。
イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。
しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」
それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス 地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号
歴史
古代都市ゲラサの遺跡の地図。北が右側、西が上、南は左側。市の南はずれにヒッポドロームと凱旋門がある。東に現代のジャラシュの町が隣接している
ハドリアヌス凱旋門
ジャラシュはギリシャ・ローマ風の都市ゲラサ (Gerasa、別名・クリュソロアスのアンティオキア、「金の川沿いのアンティオキア」、Antiochia on the Chrysorhoas)の廃墟があることで知られる。ゲラサはローマ時代、デカポリス (十都市連合)と呼ばれた東部辺境の都市群に含まれていた。ジャラシュは遺跡の大きさや発掘の大規模さ、保存状態の良さから「中東のポンペイ」との異名もあるが、ポンペイ と違い自然災害 で埋もれたわけではない。ジャラシュは中東のローマ都市遺跡の中でも保存状態が良く重要な遺跡の一つである。
近年の発掘調査ではジャラシュは青銅器時代 (紀元前3200年 から紀元前1200年 )には集落があったことがわかっている。ヘレニズム 期にコイレ・シリア (シリア南部)はセレウコス朝 シリアやプトレマイオス朝 エジプトの争奪の地となったが、これらの王朝によりギリシャ風の都市が多数作られた。ジャラシュもこの時期に造られ「アンティオキア 」と名づけられた町の一つであった。紀元前63年 、古代ローマにより征服された後はシリア属州 の一部となり、近隣の都市とデカポリス(十都市連合)を組んだ。90年 にはフィラデルフィア(現在のアンマン)とともにアラビア属州 に移された。ローマ帝国 のもとでこの地方の治安や平和が保たれたことにより(パックス・ロマーナ )、人々は経済活動や公共施設の建設に時間や労力を割くことができ、交易が発達し都市基盤が整った。
1世紀 後半、ゲラサは交易や農業で大いに発展した。106年 にはトラヤヌス 帝が新たに作ったアラビア属州を貫くローマ街道 がゲラサに通り、交易はますます栄えた。ハドリアヌス 帝は129年 から130年 にかけてゲラサを視察巡幸している。凱旋門(ハドリアヌスの凱旋門)はこの際の訪問を記念して建てられた。ラテン語による碑文には、皇帝を護衛する騎馬兵がこの地で越冬した間に、神々への奉納を行ったことが記録されている。ゲラサは、最盛期には城壁内の広さが80万平方mに達するまでに拡大した。
614年 にサーサーン朝 ペルシャがシリアに侵入したことによりゲラサは急速に衰退したが、イスラム帝国 による征服やウマイヤ朝 の支配下でもジャラシュの都市活動は活発に行われていた。746年 、大きな地震 がジャラシュとその近郊を襲い、以後ジャラシュは再建されなかった。
十字軍 の時期には、アルテミス神殿跡などジャラシュの遺跡の一部は要塞となっている。アイユーブ朝 からマムルーク朝 、オスマン帝国 の時期には小規模な集落があるのみだったが、19世紀 後半以後はシリア各地からの移民やロシア領の北カフカスからの難民が入植し始め、新しいジャラシュの街が遺跡の東隣に作られた。1920年代 からは現在に至る遺跡の発掘が始まり、一部土に埋もれていた都市が姿を現した。20世紀 後半にはパレスチナ 難民を合わせてジャラシュの人口が拡大した。
ローマ都市の遺跡
コリント式の柱が特徴的なジャラシュのアルテミス神殿
ジャラシュには現在も古代ローマ当時の威容を残す記念碑的建築や公共建築が多く残る。ハドリアヌスの凱旋門 、ヒッポドローム (戦車競技場 /競馬場 )、二つの大きな神殿(ゼウス 神殿およびアルテミス 神殿)や小さな神殿群の廃墟、列柱で囲まれたオーバル 状のユニークな広場(フォルム )、街を貫く目抜き通りである長い列柱道路(カルド)、二つの劇場(南の大きな劇場と北の小さな劇場)、二つの公共浴場 、ほぼ完全な形状で残る市壁などが代表的なものである。また遺跡のあちこちにはコリント式 オーダー で建てられた円柱群が地震にも倒れず無傷のまま残っている。これらの建築物はローマ時代、裕福な市民の寄付により建設された。
350年 以後はキリスト教徒の大きな共同体がゲラサにあり、400年 から600年 までの間には13箇所以上の教会 が建設された。これらは非常に優れたモザイク の床で装飾されている。またノア の物語などを描いたモザイクのある古代のシナゴーグ 跡がキリスト教会の下から発見されている。
近代のジャラシュ
カルド(列柱道路)にある四面門(Tetrapylon)。大通りが直交する街の中央に建つ
ジャラシュは20世紀 の間に劇的に成長した。これはヨルダン北部の中心に位置し戦略的に重要であること、観光地としての価値が高まったことが原因に挙げられる。ジャラシュの遺跡は今日、ペトラ 遺跡に次ぎヨルダンで二番目に人気のある観光客の訪問先となっている。遺跡は慎重に保存されており、スプロール 状に広がる近代のジャラシュの街が西側の遺跡まで広がらないよう規制されている。
ジャラシュには当初、近隣の町・スーフ(سوف , Souf)およびその近郊農村の人々が移り住んだ。スーフはオスマン帝国時代、長年にわたりヨルダン北部のアル=メラダ(al-Meradh)地方の中心都市であった。この地方は、南方のベドウィン のバニ・サヘル部族(Bani Sakher)による襲撃や略奪に抵抗したヨルダン北部唯一の地方であり、抵抗のための組織を築いてついにベドウィンの侵入に打ち勝った。
最初はスーフの郊外の町であったジャラシュは19世紀後半以降、シリア北部の農民らの移民の入植で急速に拡大した。またロシアや東欧からオスマン帝国に逃げてきたムスリム はオスマン政府によりシリアやヨルダン各地に組織的に入植したが、ジャラシュには北カフカスのチェルケス人が入植した。20世紀後半にはパレスチナ難民がジャラシュに住むようになった。ジャラシュは拡大を続け、かつての中心地だったスーフをはじめ近郊の農村はジャラシュの通勤圏に飲み込まれている。
経済
ジャラシュの産業は観光業 が主で、遺跡を訪れる観光客に大きく依存している。また県内にはオリーブ の木が125万本あり、これらの農産物の集散や加工も行っている。1981年 以来ジャラシュは「ジャラシュ・フェスティバル」を開催しており、夏の3週間にわたり舞踊、音楽、演劇の公演などが続く。ヨルダン王室の人々も観覧するこのフェスティバルはこの地方の大きな文化・芸術イベントとなっている。
しかしジャラシュはアンマン およびイルビド という二つの大きな都市から自動車で1時間もかからない距離にあるため、これらの都市に投資が集中してしまうため発展の速度が遅くなっている。
ギャラリー
脚注
外部リンク
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座標 : 北緯32度16分20.21秒 東経35度53分29.03秒 / 北緯32.2722806度 東経35.8913972度 / 32.2722806; 35.8913972