当時のドイツ政府には、政治的にも経済的にも、国外にある戦死者の墓地を維持管理する状態になかった。帰還兵、犠牲者の遺族、その他の市民は方策を探して、 この多くの者にとって耐え難い事態を変えようとした。国外の戦争墓地の保全のために、ドイツでは既に複数の団体が設立され、墓地の維持管理と遺族への情報提供に従事していた。バイエルン州では9月14日設立の「ドイツ戦争墓地保護連盟 (Deutscher Kriegsgräber-Schutzbund)」、ブラウンシュヴァイクで は「社団法人ドイツ戦争墓地調査保存協会 (Verein zur Erforschung und Erhaltung Deutscher Kriegsgräber e. V.)」、ザルツヴェーデルには「ドイツ戦争墓地関心者協会 (Deutsche Kriegsgräber-Interessenten-Vereinigung)」、ハーゲンには「郷土感謝同盟 (Bund Heimatdank)」があった。
1951年5月にはニーンブルクからカッセルへ移転した。1952年にドイツ連邦議会では「戦争墓地保護法 (Gesetz über die Sorge für Kriegsgräber)」が可決された。以来、ドイツ国外の戦争墓地は国民同盟が、国内の戦争墓地は各州が管轄することになっている。1956年には約60万人の会員が活動していた。改葬事業には1958年にドイツ人が117人、外国人が150人従事した。1966年から国民同盟は第一次世界大戦と1870年から1871年までの普仏戦争の戦争墓地も維持管理するようになった[6]。
会報『平和 (frieden)』(2012年までは『声と道-平和のための活動(Stimme & Weg – Arbeit für den Frieden)』は発行部数75万部で、発行は半年ごとである。内容は、追悼行事、墓地の手入れ、戦争墓地、戦争墓地訪問、ドイツ連邦軍や予備役軍人からの支援、当時を知る者の証言などである。
ドイツ軍人の生前の行動を照会したい場合は、書面かオンラインで埋葬地調査申請 (Grabnachforschungsantrag) を提出することができる。苗字だけでは同姓が非常に多いため、できる限り行方不明者の全ての名、生年月日を記入することが重要である。この他には、可能であれば死亡日、最後の所属部隊、最後に届いた通知が必要である。撤退戦では死者はもはや埋葬されないことがほとんどであった。第一次世界大戦の戦没者の詳細な文書は、第二次世界大戦中にベルリンで失われた[15]。1945年2月に戦争損害及び戦争墓地のための中央調査局 (Zentralnachweiseamt für Kriegerverluste und Kriegsgräber, ZNA) の記録が、空襲で塵芥に帰したためである[22]。
„Wir denken heute an die Opfer von Gewalt und Krieg, an Kinder, Frauen und Männer aller Völker.
Wir gedenken der Soldaten, die in den Weltkriegen starben, der Menschen, die durch Kriegshandlungen oder danach in Gefangenschaft, als Vertriebene und Flüchtlinge ihr Leben verloren.
Wir gedenken derer, die verfolgt und getötet wurden, weil sie einem anderen Volk angehörten, einer anderen Rasse zugerechnet wurden oder deren Leben wegen einer Krankheit oder Behinderung als lebensunwert bezeichnet wurde.
Wir gedenken derer, die ums Leben kamen, weil sie Widerstand gegen Gewaltherrschaft geleistet haben, und derer, die den Tod fanden, weil sie an ihrer Überzeugung oder an ihrem Glauben festhielten.
Wir trauern um die Opfer der Kriege und Bürgerkriege unserer Tage, um die Opfer von Terrorismus und politischer Verfolgung, um die Bundeswehrsoldaten und anderen Einsatzkräfte, die im Auslandseinsatz ihr Leben verloren.
Wir gedenken heute auch derer, die bei uns durch Hass und Gewalt gegen Fremde und Schwache Opfer geworden sind.
Wir trauern mit den Müttern und mit allen, die Leid tragen um die Toten. Aber unser Leben steht im Zeichen der Hoffnung auf Versöhnung unter den Menschen und Völkern, und unsere Verantwortung gilt dem Frieden unter den Menschen zu Hause und in der Welt.“
国民同盟自体は「墓地を介した和解-平和のための活動 (Versöhnung über den Gräbern – Arbeit für den Frieden)」をモットーに活動しているが、ドイツの人々からは、常に「平和運動」の一部と認知されていたわけでは決してなかった[25]。国民同盟の創設世代は、その大部分が第一次世界大戦の兵士であった。第二次世界大戦後、ナチスのプロパガンダの 一部として戦争準備に関わったという自らの過去と批判的に向き合うことが、ほとんどされてこなかった。加えて、国民同盟の綱領には、曖昧な「平和への戒め (Mahnung zum Frieden)」が残っているが、これは具体的な政治的要求を引き出すものではない。国民同盟は意識的に連邦軍だけではなく、数多くの国々の軍隊との関係を大切にしている。そして自発的に追悼施設の手入れを国際協力のもとに行うことで、とりわけ若い世代の国際協調のために貢献している。会員の平均年齢はやや高く、その多くは第二次世界大戦のいわゆる「戦争世代」に属している。批判的な立場から引き合いに出されることに、過去には旧ナチ党員やネオナチが、会員、それどころか職員として活動していたという事件が複数あった。しかし国民同盟の立場は、極右活動から距離を取るものである。例えば、この間に国民同盟に入会していたNPD所属の州議会議員が2007年に除名された。その理由としては、NPD党員であることは「国民同盟の目的と相いれない」ためであった[26]。
^Vgl. Internationale der Kriegsdienstgegner e. V. (Hg.): Die Kehrseite der Medaille – Dokumentation über den Volksbund Deutsche Kriegsgräberfürsorge e. V., Berlin 1972
^Volksbund Deutsche Kriegsgräberfürsorge: Stimme und Weg 1/2008