トリエステ県
Provincia di Trieste
トリエステ県 (トリエステけん、イタリア語 : Provincia di Trieste )は、イタリア共和国 フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州 に属していた県 。県都トリエステ は、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都でもある。イタリアの県の中では面積が最も狭く、また所属する基礎自治体 (コムーネ )の数も最も少ない。
フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州における行政制度再編に伴い、2017年に自治体としてのトリエステ県は廃止された(選挙区の単位などの地理的呼称としては残される)。
第一次世界大戦 後の1920年 にイタリア王国 領に編入されたヴェネツィア・ジュリア の一部である。第二次世界大戦 後、ユーゴスラビア との間でヴェネツィア・ジュリアの帰属問題が生じ、国際連合 によってトリエステ自由地域 が設定された。現在のトリエステ県域がイタリアに正式に復帰したのは1975年 である。スロベニア系住民 も多く、スロベニア語 も広く用いられている。
名称
標準イタリア語以外の言語では以下の名称を持つ。
スロベニア語 : Tržaška pokrajina あるいは Pokrajina Trst
地理
トリエステ県概略図。ただし、2012年6月時点で掲載されている図において、いくつかの誤りがある。図中のAurisinaの位置が誤っており、正しくはSliviaの南に位置する。図中のAurisinaの位置にあるのはOpicinaであり、図中のVilla Opicina は Trebiciano である。
位置・広がり
フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州 の東南端に所在する県である。県都トリエステ は、ウーディネ の南東約63km、スロベニアの首都リュブリャナ の南西約72km、ヴェネツィア の東北東約115km、首都ローマ の北北東約431kmに位置する。
西はアドリア海 最奥部のトリエステ湾 に面しており、海岸線の総延長は48.1 kmである。イタリア領で隣接するゴリツィア県 とは、県の北西端において2kmほどの幅でわずかに接するのみであり、北・東・南の三方はスロベニア との国境線となっている。このため、県はスロベニア領に向かってイタリア領が突き出す形となっている。
トリエステ県の面積は 212 km²で、これはイタリアの県の中では最も狭い。トリエステ県よりも広い面積を持つコムーネ (市町村相当の基礎自治体)は100以上存在する。所属するコムーネの数も5つと、イタリアの県の中で最も少ない。しかし、人口約20万人の大都市トリエステ(イタリア15位の人口を持つコムーネ)を擁しているために人口密度は高く、イタリアの県のうち4位となっている。
隣接する県
隣接する県、およびそれに相当する行政区画は以下の通り。SLOはスロベニア領を示す。
地勢
県域北西部から中部にかけての直線状の海岸線は、100m~200mの高さを持つ崖となっており、特徴的な景観を示している。また、東側にはカルソ台地 (カルスト台地)による海抜400mほどの丘陵が広がっており、海と丘に挟まれた幅5~10km の狭い平地が、西北から東南へ帯状に30km程度続いている。県の多くの町や集落は、この帯状の平地上につくられている。
カルスト地形 の特徴を示しており、数多くの洞窟 が存在している。とくに、ズゴニーコ にある「巨人の洞窟」グロッタ・ジガンテ (英語版 ) は、観光客にも公開されているものでは世界最大の洞窟として知られている。
主要な都市・集落
2001年の国勢調査に基づく居住地区(Località abitata )別人口統計[3] によれば、人口2000人以上の都市・集落は以下の通り。( )内は所属コムーネ(自治体)名を示すが、都市名と同一の場合は省いた。
歴史
古代・中世
県北西部のドゥイーノ城
西ローマ帝国 の滅亡後、現在のトリエステ県域は東ゴート人 、東ローマ帝国 、ランゴバルト人 、そしてフランク人 によって支配された。
13世紀 、ハプスブルク家 がこの地を支配するようになった。ハプスブルク君主国 (オーストリア)の統治下、現在の県域はドゥイーノ(今日のドゥイーノ=アウリジーナ 、ズゴニーコ 、モンルピーノ の各コムーネをあわせた領域に相当)、トリエステ、サン・ドルリーゴ・デッラ・ヴァッレ 、ムッジャ の各領主に分封された。
18世紀のマリア・テレジア とヨーゼフ2世 の治世、トリエステに自由港 が開設され、この地域での海運業 が発展した。
近代
トリエステ(1890年)
1809年 、ナポレオン のフランス帝国 によってこの地方は併合され、イリュリア州 に編成された。県の領域の大部分はトリエステを首都とする行政単位にまとめられたが、南東端のサン・ドルリーゴのみはポストゥーミア (現在はスロベニア領のポストイナ)の管轄下に置かれた。
ウィーン会議 (1814年 - 1815年)によって、この地はオーストリア帝国 の統治下に復帰した。ドゥイーノ、ナブレジナ(アウリジーナ)、ズゴニーコ、モンルピーノはそれまでカルニオラ (Carniola ) の一部とされていたが、帝国を構成するゲルツ伯領 (Gorizia and Gradisca ) に編入された。またトリエステは帝国直属都市となり、サン・ドルリーゴとムッジャはイストリア辺境伯領 の一部となった。なお、ゲルツ伯領・帝国直属都市トリエステ・イストリア辺境伯領を併せてオーストリア沿海州(キュステンラント )と称する。
第一次世界大戦 において、ゲルツ伯領のイゾンツォ川流域を舞台として、オーストリア とイタリア との間で激しいイゾンツォの戦い が繰り広げられたが、現在のトリエステ県域はその西北端を除いてほとんど戦場とはならなかった。大戦の最終局面となったヴィットリオ・ヴェネトの戦い が展開されていた1918年11月1日、イタリア軍がトリエステを占領。11月3日のオーストリア降伏(ヴィラ・ジュスティ休戦協定 )後、同月内にイタリア軍によってトリエステ県全域が占領された。
第一次世界大戦後
1920年 11月に結ばれたラパッロ条約 により、オーストリア沿海州のほぼ全域がイタリア王国に正式に併合された。1920年にイタリア王国の行政区画として「トリエステ県」(Provincia di Trieste )が設置されているが、ここにはクラス地方 や、現在はスロベニア領となっているノトランスカ地方 (内カルニオラ)が含まれていた。
1923年の行政区画再編により、「トリエステ県」 (it:Provincia di Trieste (1922-1945) ) には現在のゴリツィア県の南部(モンファルコーネ 、スタランツァーノ 、ロンキ・デイ・レジョナーリ 、サン・カンツィアン・ディゾンツォ 、トゥッリアーコ 、サン・ピエール・ディゾンツォ 、フォリアーノ・レディプーリア 、グラード )、現在のスロベニア・プリモルスカ地方 の一部(セジャーナ 、ディヴァーチャ 、ポストイナ 、ピフカ 、コペル の一部)も管轄下に置くこととなった。
第二次世界大戦後
イタリアからトリエステ自由地域への入境チェックポイント
第二次世界大戦 後の1945年、現トリエステ県を含むヴェネツィア・ジュリア 地方は、ユーゴスラビア とイギリス・アメリカの連合軍によってそれぞれ占領された。重要な港湾都市トリエステを含む地域の領有権をめぐって、ユーゴスラビアとイタリアが争い、戦後の東西対立の中で国際政治の焦点となった。1947年9月15日、国際連合 の管轄下にトリエステ自由地域 が設定され、自由地域北部の A地区(Zone A)を米英軍が、南部の B地区(Zone B)をユーゴ軍が分割統治する状態となった。
1954年 のロンドン協定により、北部の A地区を事実上のイタリア領、B地区を事実上のユーゴスラビア 領とすることで両国は合意に達した。すなわち、A地区が現在のトリエステ県である。1975年 11月10日に調印されたオージモ条約 (1977年10月11日発効)によって、トリエステ周辺地域の地位は確定し、正式にイタリアの一部となった。
社会
経済・産業
観光が主な産業で、港湾関係もある。
言語・民族
スロベニア人の結婚式
県の全域でイタリア語 が話されているが、以下のような言語も使用されている。
スロベニア語
県の6つのコムーネ全てにおいて、スロベニア語 の言語マイノリティの権利がイタリアの法律によって保護されている[4] 。しかしながら、イタリア語の他にスロベニア語の表示を行うことは、トリエステの都心部やムッジャなどでは実施されていない。スロベニア語学校では標準スロベニア語で教育されているが、トリエステ県域でもともと話されていたのはプリモルスカ方言群 (Littoral dialect group ) に属する方言である。プリモルスカ方言群は、さらに3つの方言に分類される。
クラス方言 (Karst dialect ) は、ドゥイーノ・アウリジーナおよびズゴニーコ、トリエステ市域北部のいくつかの集落で話されている。ノトランスカ方言 (Inner Carniolan dialect ) は、モンルピーノとトリエステ市域中部のいくつかの集落(オピチーナなど)で話されている。イストリア方言 (Istrian dialect ) は、サンドルリーゴ・デッラ・ヴァッレとムッジャ、トリエステ市域南部のいくつかの集落で話されている。
ヴェネト語
トリエステ市においては、多くの人々がヴェネト語 の下位地域変種であるトリエステ方言 を話している。
フリウリ語
かつては、トリエステ市やムッジャ において、フリウリ語 の古い方言であったテルジェステオ方言 (it:Dialetto tergestino ) が話されていたが、19世紀の末までには消滅した。
人口
人口推移 年 人口 ±% 1921 262,203 — 1931 273,676 +4.4% 1936 271,689 −0.7% 1951 297,003 +9.3% 1961 298,645 +0.6% 1971 300,304 +0.6% 1981 283,641 −5.5% 1991 261,825 −7.7% 2001 242,235 −7.5% 2011 232,601 −4.0%
人口推移
行政
行政区画
コムーネ
トリエステ県には6つのコムーネが属する。所属するコムーネの数は、イタリアの県の中で最も少ない(トスカーナ州 プラート県 の7コムーネがこれに次ぐ)。
左端の数字はISTATコードを示す。人口は2023年1月1日現在[2] 。面積は2001年のデータで[1] 、単位はkm²。
交通
トリエステのアウトストラーダ路線図
RA14のスロベニア国境
トリエステ中央駅
道路
高速道路
国道
鉄道
空港
トリエステ空港 (フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア空港、ロンキ・デイ・レジョナーリ空港)は、トリエステから西北へ約30km離れた、ゴリツィア県 ロンキ・デイ・レジョナーリ にある。
港湾
人物
著名な出身者
ゆかりの人物
脚注
この記事は、イタリア語版からの翻訳文を含み、「履歴」の補足 があります。
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
トリエステ県 に関連するカテゴリがあります。