ソープ事件(ソープじけん、英: Thorpe affair)は1970年代に起きたイギリスの政治的・性的スキャンダル事件であり、自由党の党首(英語版)で、ノース・デヴォン区(英語版)選出だった庶民院議員、ジェレミー・ソープが政界引退に追い込まれた。この事件は、ノーマン・ジョシフ、またの名をノーマン・スコット(英: Norman Josiffe / Norman Scott)による、1960年代にソープと同性愛関係にあったという主張から始まっている(→#発端)。
ノーマン・ジョシフ(英: Norman Josiffe)は、1940年2月12日にケント・シドカップ(英語版)で生まれ[21]、1967年頃「スコット」(英: Scott)という名字を名乗り始めた。母はイーナといった(旧姓リンチ、英: Ena Josiffe, née Lynch)。2番目の夫だったアルバート・ジョシフ(英: Albert Josiffe)は、ノーマンが生まれた後すぐに家族を棄てた。それでも彼の幼少期は、比較的幸せで安定したものだったという。15歳で何の資格も無いまま学校を卒業した後、動物チャリティでポニーを得た彼は、一人前の乗り手となった[22][23]。16歳の時には、鞍とポニーの餌を盗んだとして起訴され、保護観察処分を受けている。保護観察官の勧めもあり、彼はサリー・オクステッド(英語版)のウェスタラム騎馬学校[注釈 1]で訓練を受け、チェシャー・オルトリンガム(英語版)の厩舎で職を得た。オルトリンガムへ引っ越した後、彼は家族と一切の縁を切ることを選び、「リンチ=ジョシフ」(英: "Lianche-Josiffe"、"Lianche" は "Lynch" を上品に綴ったもの)との名字を名乗り始めた。また貴族の生まれであると仄めかし始め、家族に悲劇があり、自分が孤児として残されたのだと匂わせ始めた[24]。
1959年、ジョシフはオックスフォードシャー、チッピング・ノートン(英語版)のキンガム厩舎(英: Kingham Stables)に移り、馬丁として働きつつ、馬場馬術を学んだ。厩舎を所有していたノーマン・ヴェイター(英: Norman Vater)は、炭坑夫の息子でありながら自力で出世した人間で、ジョシフのように自分の名前を誇張し、"Brecht Van de Vater"(ドイツ語読みならば「ブレヒト・ファン・デ・ファーター」、英語読みならば「ブレクト・ヴァン・デ・ヴェイター」)との通り名で知られていた。のし上がる過程で、ヴェイターは上流階級に多くの友人を作っており、その中にソープもいた。当初ジョシフはこの厩舎に落ち着き、満足していたが、ヴェイターが独断的で自分本位な態度を取っていたことで関係が悪化し、また同僚とも上手く付き合うことに失敗した[25]。ジョシフは、後にジャーナリストに言われたように、「口車に乗せて他人の共感を引く(そしてヒステリー的な癇癪で相手の人生を惨めにさせる)類い稀なる才能」を発揮し始めることになる[26]。
ベッセル
ソープより8歳年上のピーター・ベッセル(英: Peter Bessell)は、自由党政治に身を投じる1950年代より前に、既に商売で成功を収めていた[27]。彼は1955年トーキー選挙区(英語版)補欠選挙に自由党候補として立候補して確実に得票数を伸ばし、1959年総選挙までの自由党国会運営で最初の躍進として党の指導部に注目された[28]。その後、より勝算が見込めるボドミン選挙区(英語版)の候補になったほか、ソープの賞賛者・友人となり、ソープはベッセルの秀でた洞察力に感銘を受けた[29]。1959年総選挙にボドミン選挙区から立候補したベッセルは、保守党との得票差を縮めることに成功し、次の1964年10月総選挙では3,000票以上の得票差を付けて勝利した[27]。名前の後ろに付く "MP" の威信を傘に、ベッセルは相当なまでの金儲けに走り、次の自由党首と睨んだソープへの親交も維持した[30]。
ソープは国会討論での鋭い議論で、機転の利く強烈な人物であることを証明し、庶民院での存在もすぐに大きくなった。1962年7月、保守党は補欠選挙で破滅的な結果に終わり、ハロルド・マクミラン首相が7人の閣僚を交代させる「長いナイフの夜(英語版)」と呼ばれる事件が起きる。ソープが聖書をもじって言った「己が命のために友を投げ打つこと、これに勝る愛は無い」(英: "Greater love hath no man than this, that he lay down his friends for his life")という言葉は、首相に対する最も的確な評価だと広く受け止められた[16]。ソープは政府官僚に対する効果的な一撃で政治的評価を一気に上げ、1964年イギリス総選挙ではノース・デヴォン選挙区での得票差を大いに伸ばした[45]。1年後には自由党の会計係の職を得て、次期党首への野心に向け、着実な一歩を踏み出していた[46]。
1965年早く、ダブリンで馬関連の職にいくつか就いていたジョシフは、失くした鞄の話と、自身の国民保険カードの問題について手紙を送り、相変わらずソープを困らせ続けていた[47]。しかしながら、ジョシフの訴えに対し、ソープは一切の負担を拒絶した[48]。同年3月中旬、ジョシフは「この5年間、あなたもご存じだと思いますが、ジェレミーとわたしは同性愛関係にありました」[注釈 4]と始まる長文の手紙を、ソープの母親に送り付けた。この手紙はソープに「どんな男にも隠れている、この性的不道徳」(英: "this vice that lies latent in every man")を目覚めさせられたと非難するもので、また彼の冷淡さや不実についても糾弾していた[49]。母アーシュラ(英: Ursula Thorpe)はこの手紙を息子に渡し、ソープの側も「[自分に]損害を与える事実無根の告訴文」として退ける法的声明文を起草し、自分を強請ろうとしているとしてジョシフを非難した。この声明文は結局送付されず、代わりにソープは、ベッセルに助言を求めることにした[50]。
党で最も有名な人物に奉仕したいと渇望していたベッセルは、1965年4月にダブリンへ飛んだ。彼はジョシフが、同情に満ちたイエズス会の聖職者、スウィートマン神父(英: Father Sweetman)の助言を得ていると知る[51]。スウィートマン神父は、少なくともジョシフの主張の一部は本当なのだろうと信じており、ベッセルに対し、なぜこの一件に対処するためにロンドンから飛んできたのか逆に尋ねた[52]。ベッセルはジョシフに対し、公人を脅迫しようとするとどうなるか警告したが、それ以上に懐柔的な語り口で、失くした鞄と保険カードについて何とかしてやると請け合った。彼はまた、アメリカで騎手の職が得られる可能性についても仄めかした[51]。ベッセルの仲裁は問題を封じ込めたかに見え、さらにジョシフの鞄はこの直後に持ち主の手に返ったが、ジョシフによれば、ソープに関係した手紙は全て除かれていたという[53]。続く2年間のほとんどを、ジョシフは様々な職に就こうとしながらアイルランドで穏やかに過ごすが、中には男子修道院に入っていた時期もあった。この頃、ジョシフは自身の名前を、正式に「スコット」と変えている[54][注釈 5]。
1968年12月初旬、ベッセルは庶民院にあるソープの事務所に呼びつけられた。ベッセルによれば、ソープはスコットについて「彼を取り除きたいと思う」と話し、それから「病気の犬を撃つより悪いことはないだろう」と述べたという[注釈 8][65]。ベッセルは後に、ソープが本気だったのかどうかは分からなかったが、協力することを決めて、スコットを排除する方策についてあれこれ話し合ったと回顧している。ソープはコーンウォールのスズ廃鉱山のどれかで片付けることが最も得策だと考え、友人のデイヴィッド・ホームズ(英: David Holmes)が暗殺者に適任だと仄めかしたと推測されている。4人いた自由党会計係補佐の1人だったホームズは、1965年にソープに指名されてこの職に就任し、彼の結婚式ではベストマンを務めたほか、ソープに完全な忠誠心を持っていた[64]。
1971年5月26日・27日、スコットは自分の一件を、フーソンと党の院内幹事長(英語版)だったデイヴィッド・スティール(英語版)に話した。どちらも完全に納得したわけではなかったが、この問題について更なる調査が必要であることは感じ取った。ソープの望みとは裏腹に、内密の党内調査が6月9日に計画され、貴族院での党代表、フランク・バイヤーズ(英語版)をトップにした委員会が組織された。党内調査でバイヤーズは、スコットに対して厳しい姿勢で臨み、彼に椅子すら勧めなかったほか、スコットが「学校に通う男の子が校長先生の前に出されたときのように」[注釈 10]と回想したように彼を扱った[72]。バイヤーの非共感的な姿勢はすぐにスコットを不安にさせ、話の細部は複数回にわたって内容が変化したほか、しばしば涙を流すほどだった。バイヤーズは、スコットが典型的な強請り師で、精神科的支援を必要とする人物だと考えた。スコットの側は、バイヤーズが「横柄な古だぬき」(英: "pontificating old sod")だと吐き捨て、部屋から逃げ帰った[65]。調査委員会は次に、スコットが1962年に見せた手紙について警察に尋ねたが、それらはどうにもならないものだったとの答えしか得られなかった[73]。ソープは内務大臣だったレジナルド・モードリング(英語版)、ロンドン警視庁 警視総監(英語版)だったジョン・ウォルドロン(英語版)に対し、警察はソープの行動に何の関心も持っておらず、ソープが悪事を働いた証拠は見つかっていないとバイヤーズに伝えてほしいと説得した[74]。結果として、党内調査でスコットの主張は棄却された[65]。
さらなる脅威
バイヤーズの党内調査での仕打ちに怒ったスコットは、ソープへの怨念を晴らすための方法を新たに探し始めた。1971年6月、スコットは、南アフリカのジャーナリストで、同国の諜報機関・南アフリカ国家保安局(英語版) (BOSS) のエージェントでもあったゴードン・ウィンター(英: Gordon Winter)に接触した。スコットはソープから受けた(と考えていた)誘惑について事細かに喋り、ウィンターはこの話を聞いて、BOSSの上司ならソープと自由党を壊してしまうことさえできると確信した。一方で、話は裏付けのほとんどない、信用性も薄い証拠に基づいていたので、この話を書き立てるような新聞はどこにも無かった[75]。1972年3月には、スコットの友人だったグウェン・パリー=ジョーンズが亡くなり、スコットは死因審問の場を利用して、ソープが自分の人生をめちゃめちゃにし、パリー=ジョーンズを死に追いやったのだと主張した。これらの告発は、どれも公表されずに終わった[76]。鬱状態に陥り無気力となったスコットは、鎮静剤の助けを借りるようになり、暫くの間ソープへの脅威は収まった[77]。
パリー=ジョーンズの死後、スコットは暫く南西イングランドで穏やかな生活を送った[85]。1974年1月、彼はノース・デヴォン選挙区でソープの対抗馬だった保守党のティム・キーグウィン(英: Tim Keigwin)に会い、ソープとの関係について、彼の側から見た一方的な説明をした。キーグウィンは保守党上層部から、その話は使うべきでないと諭された[86]。スコットはさらに、うつ病治療の主治医だったロナルド・グリードル(英: Ronald Gleadle)にこの話を打ち明けた。彼はグリードルに関係書類を見せたが、医者の側はスコットが知らない所で合意無く、これらの書類をソープの保護者の役目を引き継いでいたホームズに売り払った(ベッセルは1974年1月にカリフォルニアへ移住していた)。ホームズは2,500ポンド(2023年の32,909ポンドに相当[58])で買い取り、ソープの事務弁護士の家で即座に焼き払われた[87]。また、1974年11月には、ベッセルが使っていたロンドンの事務所を改築しようとした建設業者によって、隠されていた書類が新たに発見された。彼らはソープの名誉を明らかに汚す手紙や写真が詰め込まれたブリーフケースを見つけ、その中にはスコットが1965年にアーシュラ・ソープへ送った手紙も含まれていた。見つけたものの処遇を決めかねた彼らは、これらをタブロイド新聞『サンデー・ミラー(英語版)』(『デイリー・ミラー』紙の姉妹紙)に送った。この新聞の副編集長だったシドニー・ジェイコブソン(英語版)は、入っていた書類を公表しないことに決め、ブリーフケースとその中身をソープに渡した[79]。しかしながら、ソープの元へ返す前に、新聞社は書類のコピーを取って保管に回していた[88]。
関係者が主張した「共謀」
事件について調査したジャーナリストのサイモン・フリーマン、バリー・ペンローズ[注釈 13]の2人は、スコットの脅威が再び増してきた1974年初めに、ソープが彼を黙らせる方策について検討していたに違いないと発表している[89]。ホームズは後に、ソープは執拗なまでスコット殺害にこだわり、「[ジェレミーは]あの男がうろついている間は身の安全など無い[と感じていた]」のだと述べた[90]。どのように近付いたのかは不明だが、1974年遅く、ホームズは仕事上の面識があった絨毯販売員のジョン・ル・メスリエールに接近した(同名俳優(英語版)とは別人)。ル・メスリエールは、スコットの一件に対処する覚悟がある人物と接触できるだろう人物として、スロットマシン売りのジョージ・ディーキン(英: George Deakin)をホームズに紹介した。ホームズとル・メスリエールは、スコットを脅してやる必要があるとして共謀し、ディーキンも手助けに同意した[91]。1975年2月、ディーキンは航空会社でパイロットとして働き、正当な報酬があるならスコットの一件に喜んで対処するというアンドルー・ニュートン(英: Andrew Newton)と会い、5,000〜10,000ポンド[注釈 14]が提示された[92]。ディーキンはニュートンにホームズと会うよう勧めた。ニュートンはずっと、自分に提示された「ただ誰かを怖がらせるには多過ぎる」(本人談)額に言及して、自分は人を脅かすためでなく、殺す為に雇われたのだと述べていた[93]。
これらの企みが進行している裏でソープは、バハマに拠点を置く億万長者で、以前自由党へ気前よく出資してくれていたジャック・ヘイワード(英語版)に手紙を送っている。1974年2月の選挙で自由党が成功した際、ソープは党の資金を補給するため、5万ポンド(2023年の529,768ポンドに相当[58])の出資を頼み込んだ。彼は更に、うち1万ポンドを、党の通常口座ではなく、チャンネル諸島に住むソープの友人、ナディア・ディンショー(英: Nadir Dinshaw)の元へ振り込むよう依頼した。ソープはこの理由について、選挙の雑費を精算するために必要だと説明した。ヘイワードはソープを信用して1万ポンドをディンショーへ送金し、ディンショーはその金をソープに指示された通りホームズへ送金した[89]。1974年10月選挙の後、ソープは再びヘイワードへ資金援助を頼み、また1万ポンドをディンショーへ送金するよう依頼した。ヘイワードは頼みを聞き入れたが、今度は気乗り薄だったらしく、送金も少し遅れた。帳簿に載らない2万ポンドが調達され、ホームズ、ル・メスリエール、ディーキンは、どの程度使われたのかについては話が合わなかったが、全員口を揃えて「脅迫という共謀」(英: a "conspiracy to frighten")の資金だったと述べている[93]。後にソープは、ヘイワードに話した「特別な区分の選挙支出」という話を変え、党の会計係と、資金を「後の選挙で資金不足に陥った場合に備えた貯蓄」(英: "as an iron reserve against any shortage of funds at any subsequent election.")に回していたと述べた。彼はニュートンや、この件の関係者への支払を認めたためしはないと否定している[94]。
同時期、『デイリー・メール』紙はベッセルがカリフォルニア州にいることを突き止め、1976年2月3日にロング・インタビューを実施した。自分がスコットに脅迫されていたのだとするベッセルの主張は、ソープにとっては一時的な隠れ蓑となった[106]。3月6日付の新聞で、ホームズがグリードルからスコットの書類を買い取ったことが報道され、数日後にはデイヴィッド・スティール(英語版)が個人的友人だったディンショーから、党のために使うはずだった2万ポンドの資金がホームズの仕事用に回され、帳簿外の資金になっていることを聞き出す。スティールはソープに辞職すべきだと勧告したが、ソープの側はこれを拒否した[104][107]。対応を決めかねた同僚の国会議員たちを安心させようとしたソープは、3月14日に『サンデー・タイムズ』へ "The Lies of Norman Scott"(ノーマン・スコットの嘘)と題した、スコットの主張への反論記事を掲載させる手はずを整えた[108]。
ソープの辞任後、18ヶ月に渡って報道各社の関心が比較的薄い状態が続き、引き続き行われていた調査の進展度を隠すことに役立った。「ペンコート」と呼ばれたジャーナリストのバリー・ペンローズとロジャー・コーティアーは、当初、首相を辞任したウィルソンが、ソープは南アフリカ情報当局の監視対象だったという自説を調査するため雇った人物だった[114]。「ペンコート」は調査の過程でベッセルに接触し、彼はスコット殺害の共謀や、共謀でのソープの役割について彼らに話した[115]。この話は、1977年10月に出所したニュートンが、ロンドンの新聞『イヴニング・ニュース(英語版)』に自分の話を売りつけたことで、彼らの公表前にすっぱ抜かれてしまう。ニュートンはスコットを殺すために5,000ポンドを支払われたと述べ、ル・メスリエールから報酬を受け取る自身の写真を提供した[116][117][注釈 20]。長い警察の捜査が続き、しまいにはソープ、ホームズ、ル・メスリエール、ディーキンの4人が殺人共謀の疑いで告訴された。ソープはさらに、1969年にベッセル・ホームズと行った会議に基づき、殺人教唆の疑いでも訴追された。保釈後、ソープは「私はこの件で完全に潔白で、徹底的に戦う」(英: "I am totally innocent of this charge and will vigorously challenge it".)と述べている[120]。
捜査当局は公判前の公判付託手続(英語版)実施を決め、手続は1978年11月20日にマインヘッド(英語版)で始まった。ディーキンの法廷弁護士の依頼により、報道制限が解除され、新聞各社は名誉毀損法抵触の恐れなく、法廷での発言を逐一報道できるようになった[123]。この動きは、新聞報道を避けて訴訟棄却に持ち込むために非公開審理を望んでいたソープを激昂させた。結果はどうあれ、ソープは報道の風向き次第で自身のキャリアは打ち砕かれ、スコットの復讐が完遂するであろうことを理解していた[124]。付託手続が始まり、ベッセルは、病気の犬を撃ち殺す話を含め、1969年の会合でホームズがスコットを殺すべきだとソープが仄めかした旨を主張した[125]。法廷の出席者たちは、ベッセルが『サンデー・テレグラフ(英語版)』(『デイリー・テレグラフ』の姉妹紙)と接触し、自身の話と引き換えに5万ポンド(2023年の362,320ポンドに相当[58])の報酬を得ていた事を知る[126]。ディンショーは、自身がヘイワードから受け取りホームズに流した2万ポンド、またソープによる隠蔽工作の証拠を提出した[127]。ニュートンは、ホームズがスコットの殺害を望んでいたと法廷証言し、「彼は[スコットが]この地球から消え去り、2度と姿を現さなければよいと考えていた。方法は自分に一任された」と述べた[注釈 21]。スコットは、ソープの母親宅で受けたと主張するソープからの誘惑、またその他の機会について客観的に詳細まで述べ、ポーロック・ヒルの原野で起きた銃撃事件についても詳述した[129]。付託手続の最後に、治安判事長は4人の被告をオールド・ベイリー(英語版)こと中央刑事裁判所(英: the Central Criminal Court)での公判に付した[130]。
6月18日、判事は説示を始めた。判事は、被告たちの過去の評判がよかったことに陪審員団の注意を向け、「今まで欠点が無いとの評判だった人物たち」(英: "men of hitherto unblemished reputation.")と述べた[143][注釈 24]。カントリーはソープについて、「非常に有名な公的記録を持つ、国民的な人物」(英: "a national figure with a very distinguished public record".)と述べた[143]。判事は主要な証人たちの瑕疵について述べた。ベッセルは「ペテン師」(英: "humbug")で、『サンデー・テレグラフ』紙と連絡を取ったことは「嘆かわしい」(英: "deplorable")とした[145]。スコットについては、詐欺師、他人のすねかじり、不平ばかりの人物、厄介者だとし、「しかし勿論、彼が真実を話しているという可能性もある。この辺りは信用の問題だ」(英: "but of course he could still be telling the truth. It is a question of belief.")と述べた[146]。ニュートンは偽証者、そして間抜けと表現され、「この件から出来るだけ甘い汁を吸おうとした」(英: "[He] determined to milk the case as hard as he can.")と評された[147]。ソープがヘイワードから得た2万ポンドの謎については、この件に無関係と考えられ、判事は「ある人が金を騙し取ったという事実は、彼が共謀の一因だったことを[証明する]ものではない」とされた[注釈 25]。ウォーは判事の公正性に欠ける態度について、被告人に対する陪審員の反作用的態度を生む可能性もあると感じた[148]。説示は風刺家のピーター・クック(英語版)によって痛烈にもじられ、公判の直後には、アムネスティ・インターナショナルへのチャリティイベントである『シークレット・ポリスマンズ・ボール(英語版)』 (1979年版) で、クックの書いたスケッチが上演された[149]。クック版は、フリーマンとペンローズによれば、「実際の所、オリジナルとほとんど差異は無かった」とのことである[150]。
陪審員団は6月20日の朝に評決するため引き下がった。2日後に再開した公判で、陪審員団は4人の被告全員に無罪を宣告した[注釈 27]。判事はディーキンに必要経費を支払ったが、調査に非協力的だったと考えてホームズとル・メスリエールには支払わなかった。ソープは経費の申請を行わなかった[153]。短い公式声明の中で、ソープは評決について「完全に公正・公平で、完璧な無実の証明」(英: "totally fair, just and a complete vindication.")だと考えている旨を明らかにした[154]。デイヴィッド・スティール(英語版)は自由党を代表し、「大いにほっとした」(英: "a great relief")として評決を歓迎し、ソープについては「しかるべき休息と疲労回復用の時間の後[中略]素晴らしい才能を発揮する道を見つけるだろう」(英: Thorpe would, "after a suitable period of rest and recuperation ... find many avenues where his great talents may be used.")と述べた[154]。ノース・デヴォンでもソープの無罪評決は歓迎され、ミサでは、式を執り行ったジョン・ホーンビィ司祭(英: The Rev. John Hornby)が「神のしもべであるジェレミーへの手助けに。暗闇は今や消え去り、真実の光が輝いている。これは主が作りたもうた日なのだ!今日は魂の救済の日なのだ!」として神へ感謝を告げた[注釈 28]。
無罪判決が下ったものの、世間では、ソープの態度は不適切で、十分に説明責任を果たしていないという認識が強かった[156][157]。バーンステイプル大執事(英語版)はホーンビィのメロドラマ的な感謝ミサに批判的で、「オールド・ベイリーでの結果には大量の不幸が付いている。大勢の人々にとっては、この一件に関する公判は大きな疑問符を付けて終わったというところだ」と述べた[注釈 29]。党に活発な政治活動への復帰を拒まれたソープは[159]、1982年にアムネスティ・インターナショナルから英国本部の理事として招聘されるが[160]、団体スタッフの抗議に遭って辞退した[161]。それから程なくして、ソープにはパーキンソン病の徴候が現れ始め、1980年代半ばにはほとんど完全に公職から退き、私生活に軸足を移すことになる。1988年に旧自由党が社会民主党と合併して自由民主党を結党した後、ノース・デヴォン選挙区の自由民主党本部はソープと政治的に和解し、彼を名誉総裁職に据えた。ソープが1997年に自由民主党の党大会に参加した際には、彼に拍手喝采が贈られた[11]。1999年、ソープは政治活動の回顧録である "In My Own Time" を出版し、公判の最中沈黙を保ったことを正当化した上で、結果については全く疑っていなかったと述べた[151]。9年後の2008年1月、ソープは25年ぶりに『ガーディアン』紙のインタビューに応じた。この一件に話が及ぶと、彼は「今あの事件が起こったならば、大衆ももう少し優しかったと思う。あの時彼らは、あの一件に大層戸惑った……あの事件は彼らの価値観を害した」と述べた[162]。ソープは妻マリオンが死んだ後、2014年12月4日に85歳で亡くなった[163][164]。
公判の後、ル・メスリエールの人物評は低空飛行を続け、全国紙に「本当の話」(英: "the real story")を売ろうという目論見も失敗に終わった[165]。1981年6月には、『ニュース・オブ・ザ・ワールド』に連載された記事にホームズが登場し、「ジェレミーが直面した教唆罪は本当のもので、もし自分が証人席に立っていたなら、真実を話さざるを得なかったはずだ」と述べ、ソープからスコットを殺すよう頼まれたと再主張した[注釈 30]。ホームズは1990年に亡くなる前、スコットを「脅迫する」"frighten" 共謀に加わったことは認めたが、それは彼の殺人を意味するものではなかったとしている[167]。ベッセルは事件にまつわる話をまとめて、1980年にアメリカで出版した[168][169]。ベッセルは1985年に亡くなったが、晩年の労力はカリフォルニア州・サンディエゴでのビーチ浸食を食い止めるキャンペーンに注がれた[168]。ニュートンは、ル・メスリエールと同じく、事件の話で金稼ぎをしようと試みたが、彼の話を出版しようという新聞社は無く、失敗した[170]。この一件に関するスコットの最後の言説は評決直後に出されたもので、結果には驚かなかったが、判事が裁判官席という安全な場所から自分の性格について糾弾したことにはうろたえた、とするものである[157]。2014年12月、74歳になったスコットは最近デヴォンからアイルランドに移住したと報じられたが[171]、ジョン・プレストンは、2016年に出版した著作の中で (en) 、「ダートムーアの村で[中略]70羽のニワトリ、3頭の馬、1匹の猫、1羽のオウム、1羽のカナリア、5匹の犬と[暮らしている]」とスコットの近況を伝えている[注釈 31]。2017年には南西イングランドで穏やかな生活をしていると報じられている[164]。
この事件を追い2014年にBBCで放送されたドキュメンタリー(→外部リンク参照)では、アンティークの銃火器収集家デニス・ミーアン(英: Dennis Meighan)が、匿名の古参自由党員からスコットを殺すために雇われ、13,500ポンドを支払われたと述べた。ミーアンは、当初は賛成していたものの気が変わり、ニュートンに銃撃で使われた銃を提供したと述べている。警察に自白した後、彼は予め準備された声明文に署名するよう求められたが、その内容はミーアンに拠れば「有罪になるようなことは全て忘れるが、同時に、自分が自由党、ジェレミー・ソープ、その他に関して述べたこともまた忘れる」というものだった[173]。BBCのトム・マンゴールド(英語版)はミーアンの供述について、もし本当ならば、「超最高級の共謀」(英: "a conspiracy at the very highest level")があったことを示唆すると述べた[174]。2016年、エイヴォン・サマセット警察は、初期捜査の独立見解を述べた捜査文書を、ウェールズ・グウェント警察(英語版)に引き渡したことを発表している[175][176]。
「私は、彼が自殺したくなるような不安定な状況におり、絶望的なまでに援助を必要としている人物だと信じていた……結局、彼に対する私の憐れみと親切は、悪意と憤りで報いられた訳だ」 "I believed that he was a person desperately in need of help and support in that he was in a suicidal and unbalanced state ... in the event my compassion and kindness towards him was in due course repaid by malevolence and resentment".[36]
^原文:英: "For the last five years, as you probably know, Jeremy and I have had a homosexual relationship."
Auberon Waugh on Thorpe's election victory, February 1974 The most disappointing result has been Jeremy Thorpe's success in North Devon. Thorpe was already conceited enough, and now threatens to become one of the great embarrassments of politics. Soon I may have to reveal some of the things in my file on this revolting man. — Private Eye, March 1974.[78]
The "Bunnies" letter, February 1962 "Since my letters normally go to the House, yours arrived all by itself at my breakfast table at the Reform, and gave me tremendous pleasure. I cannot tell you just how happy I am to feel that you are really settling down ... you can always feel that whatever happens Jimmy and Mary are right behind you ... no more bloody clinics ... In haste. Bunnies can (and will) go to France. I miss you"[39]
^ニュートンの審理にまつわる記述で、バリー・ペンローズとロジャー・コーティアーは、スコットの反対尋問のシーンを挙げている。この中で彼らは、「ロンドンの一流法廷弁護士にとって、スコットは決して与しやすい相手ではなかった……彼の態度、そして質問へ即座に鋭く答えることのできる能力は、フリート街の人気タブロイドが書き立てていたような人物像とは明らかに違っていた」(英: "Scott was no easy pushover for a first-class London barrister ... His demeanour, his ability to answer questions sharply at times, was certainly different from the portraits which had been sketched of him in some of the popular Fleet Street tabloids".)と述べている[112]。なお、フリート街とは、ロンドンの1地区で、大手新聞社の本社が軒を連ねていた場所である。
^原文:"He would prefer it if [Scott] vanished from the face of the earth and was never seen again. It was left to me how to do it".[128]
^南西イングランド在住で、この一件をつぶさに追っていた『プライヴェート・アイ』のオーバロン・ウォーは、ソープの地元であるノース・デヴォン選挙区から、「愛犬家党」(英: "Dog Lovers' Party")の候補として出馬して大いに揶揄した[132]。彼の選挙演説は、「リンカは忘れられたのではない。リンカは生きている。ワンワン。ウォーに投票して、全ての犬に生と自由、幸福を追求する権利を与えてくれ」(英: "Rinka is NOT forgotten. Rinka lives. Woof, woof. Vote Waugh to give all dogs the right to life, liberty and the pursuit of happiness".)と締めくくられた[133]。保守党の当選者が31,811票、ソープが23,338票を獲得した中、ウォーはわずか79票しか得ることが出来なかった[81]。
^プレストンはこの陳述が不正確であることを指摘している。ディーキンは以前に盗品を受け取ったかどで有罪判決を受けているし、貿易省が1976年に発表した報告書では、ソープが管理者だったロンドン・アンド・カウンティ・セキュリティーズ・グループ(英: London and County Securities Group)が1973年に倒産したことについての批判が掲載されている[144]。
^原文:"The fact that a man obtains money by deceit does not [prove] that the man was a member of a conspiracy."[148]
Thorpe on the trial All three [principal prosecution witnesses] had ... been destroyed in cross-examination, and the prosecution's case at its close was shot through with lies, inaccuracies and admissions to such an extent that the defence decided not to give evidence. To have done so would have prolonged the trial unnecessarily. — Jeremy Thorpe、In My Own Time'[151]
^原文:[The Rev. John Hornby, gave thanks to God] "for the ministry of His servant Jeremy ...The darkness is now past and the true light shines. This is the day the Lord hath made! Now is the day of our salvation!"[155]
^原文:"There is a great deal of unhappiness about the result at the Old Bailey. As far as most people are concerned, the trial ended with a big question mark over the case".[158]
^原文:"The incitement charge which Jeremy faced was true, and if I had gone into the witness box I'd have had to tell the truth."[166]
^原文:"in a village on Dartmoor ... with seventy hens, three horses, a cat, a parrot, a canary, and five dogs".[172]
^“Jeremy Thorpe: Was there an establishment cover-up?”. BBC News: UK Politics. BBC. 8 December 2014閲覧。 “So I thought, 'Well, I've got to sign this'. It just virtually left everything out that was incriminating, but at the same time everything I said about the Liberal Party, Jeremy Thorpe, etcetera, was left out as well.”
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تحتاج هذه المقالة إلى الاستشهاد بمصادر إضافية لتحسين وثوقيتها. فضلاً ساهم في تطوير هذه المقالة بإضافة استشهادات من مصادر موثوقة. من الممكن التشكيك بالمعلومات غير المنسوبة إلى مصدر وإزالتها. (فبراير 2018) جزء من سلسلة مقالات حولاقتصاد تاريخأفرع تاريخ الاقتصاد مدارس الاقتصاد...
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