中世ヨーロッパの各地で、女たちが夜間にディアーナやゲルマンの女神ホルダと飛行し集うといった異教的民間信仰があった[3]。906年頃にプリュムのレギノンが編纂したカノン(教会法)は、夜に動物に乗ってディアーナとともに旅をしたり、ディアーナに仕えるために召集される「邪悪な女たち」がいるとし、これを根絶すべき迷信として非難している。このテクストは11世紀にヴォルムスのブルヒァルト(en:Burchard of Worms)が編纂した「教令集」に若干改変された形で再録され、後に『司教法令集』と呼ばれて流布した。『司教法令集』は「ディアーナの騎行」は悪魔に吹き込まれた幻覚にすぎず、現実のものではないと断じた。そのためか、こうした女たちへの罰は比較的軽いものであった[2]。その頃はまだ悪魔に仕える魔女という存在の概念は確立していなかったが、ここにみられる女たちの夜の旅や集会は、魔女がホウキや動物にまたがって夜に集うという後世に作られた類型的サバト像に通じるものである。
ロッセル・ホープ・ロビンズなどの学者は、悪魔的なサバトの概念は主として中世末期の14-15世紀に異端審問官や学者らによって作り上げられたものであり、異端審問においてサバトが初めて登場したのは1335年のトゥールーズでの裁判であったとした[1]。しかし、ノーマン・コーンは1330年代のトゥールーズの魔女裁判に関する典拠となったラモト=ランゴン男爵の『フランスにおける異端審問所の歴史』(1829年)は一次史料に依拠しない歴史捏造的な書物であると指摘し、魔女のサバトの概念が14世紀において南フランスでのカタリ派迫害の延長線上に生まれたとする説を論駁している[4]。初期の悪魔学者ヨハンネス・ニーダー(en:Johannes Nider, ca 1380-1438)はサバトのことを知らず、魔女の空中飛行については懐疑的であった[1]が、スイスで子どもを殺す儀式があったことを『蟻塚』(Formicarius, 1435-1438)の中で記している[5]。また、女性を非難する側と擁護する側の議論を描いたマルタン・ル・フラン(en:Martin Le Franc)の長編詩『女性の擁護者』(Le Champion des dames, ca 1440)では当時のサバト観が論じられている[3]。1452年の作者不詳の小冊子『ガザリ派の誤謬』(Errores Gazariorum)にもサバトのことが出てくる(そこではサバトのことはシナゴーグと呼ばれている)[1]。
近世の魔女裁判に大きな影響を与えたと言われている『魔女に与える鉄槌』(1486年)では魔女の集会についてあまり言及されていないが、16-17世紀にはジャン・ボダン(en:Jean Bodin, 1529/30-1596)の『魔女の悪魔憑依』(De la Démonomanie des Sorciers, 1580)やド・ランクル(en:De Lancre, 1553-1631)の『堕天使と悪霊の無節操一覧』(Tableau de L'inconstance des Mauvais Anges et Démons, 1612年)など多くの悪魔学論書が出版され、サバトに対する妄想は拡充されていった[3]。多くの人々がサバトへの参加を告発されその命を失ったのもこの時代である。ペーター・ビンスフェルト(en:Peter Binsfeld)はその著 『蠱業(まじわざ)への注解』(Commentarius de Maleficius, 1622)で魔女を告発する際の重要な証拠として、その人物がサバトに参加したことを挙げている。
ハンス・バルドゥンク(en:Hans Baldung, ca 1484-1545)およびド・ランクルによれば、サバトでは人肉が食され、子どもの肉が好まれた。そして人骨も特別な方法で煮込まれた。悪魔は塩とパンと油を嫌うため、それらは禁止されていたと書いた者もいるが、他の証言は美味い料理に言及している。他に、人間の脂肪、とりわけ洗礼を受けていない子どもの脂肪は、魔女の飛行を可能にする軟膏を作るのに使われたと付け加える記述もある。魔女は集会場所まで自分で飛んでいったり、ホウキにまたがって行ったり、悪魔に運んでもらったりするとも信じられた。