キングコング・バンディ(King Kong Bundy、本名:Christopher Alan Pallies、1957年11月7日[1] - 2019年3月4日[2])は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニュージャージー州アトランティックシティ出身。生年は1955年ともされる。
現役選手時代はスキンヘッドの超巨漢ヒールとして、WWFなどを主戦場に活躍した[4]。
来歴
プロレスラー養成機関 "モンスター・ファクトリー" の主宰者ラリー・シャープのトレーニングを受け、1980年にデビュー[3]。当時は髪の毛を伸ばしており、クリップラー・クリス・キャニオン("Crippler" Chris Canyon)、または往年の巨漢レスラーであるマン・マウンテン・キャノンの「息子」と称して、マン・マウンテン・キャノン・ジュニア(Man Mountain Cannon, Jr.)などのリングネームを用いていた[5]。ヒールのジョブ・ボーイとして、ビンス・マクマホン・シニア時代のWWFのTVテーピングでは、ペドロ・モラレス、ミル・マスカラス、ダスティ・ローデス、リック・マーテルらのジョバーも務めた[6]。
1981年11月より、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス州ダラスのWCCWに参戦[7]。当初はビッグ・ダディ・バンディ(Big Daddy Bundy)、後にキングコング・バンディ(King Kong Bundy)と改名して、1982年5月5日にケリー・フォン・エリックからNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取[8]。同年6月4日、テキサス・スタジアムにてフリッツの引退試合の相手を務め[9]、日本でも巨漢の若手ヒールとして注目される。1983年6月17日にはダラスでジャイアント馬場のPWFヘビー級王座にも挑戦した[10]。
同年9月よりジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに登場、ポール・エラリング率いるヒール軍団リージョン・オブ・ドゥームに加入するが仲間割れ。翌1984年5月6日、マスクド・スーパースターと組んでロード・ウォリアーズからNWAナショナル・タッグ王座を奪取した[11]。
その後はテネシー州メンフィスのCWAに進出、ジミー・ハートが率いるファースト・ファミリーの一員となり、1984年7月30日にトミー・リッチを破ってAWA南部ヘビー級王座を獲得[12]。ジェリー・ローラー、ジミー・バリアント、ダッチ・マンテル、ランディ・サベージとも抗争を繰り広げ[13]、10月4日にはリック・ルードと組んでファビュラス・ワンズからAWA南部タッグ王座も奪取した[14]。並行してブーン・ブーン・バンディ(Boom Boom Bundy)の変名でAWAにベビーフェイスとして単発参戦、ジェリー・ブラックウェルと巨漢コンビを組み、ウォリアーズとの再対決も行われた[15]。
1985年1月、新日本プロレスの『新春黄金シリーズ』に「まだ見ぬ強豪」として初来日[4]。来日直後にバンディは「カウントは5でいい。俺をボディスラムで投げたらアントニオ猪木に1万5000ドル(当時のレートで約390万円)払おう」と豪語した[16]。猪木は1月7日にこれを受託し、1月27日の更埴大会で「バンディが俺をボディスラムで投げたら、1万5000ドル払ってやる」と逆に提案した[16]。1月30日の福生大会では6人タッグマッチながら猪木からピンフォール勝ちを収めた(アブドーラ・ザ・ブッチャー&バンディ&ワイルド・サモアンVS猪木&坂口征二&藤波辰巳)[17]。猪木がフォール負けしたのは、海外でボブ・バックランドに3本勝負の2本目を取られて(試合は1対1の引き分け)以来の3年9カ月ぶり、国内ではタイガー・ジェット・シンに取られて以来の4年半ぶりであった。2月1日の成田大会では、特別参加したハルク・ホーガンとシングルマッチで対戦、ホーガンを場外フェンスの外に放り投げての反則負けを喫している[17]。シリーズ終盤戦では猪木を相手に、2月5日に愛知県体育館、翌6日に大阪府立体育館にて、1万5000ドルの賞金をかけたボディスラム・マッチの2連戦が行われた[18][19]。6日の大阪大会では猪木をボディスラムで投げて賞金を獲得したが、試合にはフォール負けを喫した[16]。
新日本プロレスには同年3回に渡って参戦しており、再来日となる5月開幕の『IWGP&WWF チャンピオン・シリーズ』ではアンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級対決が実現[20]。最後の来日となった6月末開幕の『バーニング・スピリット・イン・サマー』では、当時新日本に移籍したばかりのブルーザー・ブロディとキングコング・タッグを組み、猪木&坂口の黄金コンビから勝利を収めている[21]。同シリーズではバッドニュース・アレンをパートナーに、7月12日に後楽園ホールにて藤波&木村健吾が当時保持していたWWFインターナショナル・タッグ王座にも挑戦した[22]。
同年3月、新日本プロレスからの逆ブッキングという形で、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米侵攻を進めていたWWFと契約[4]。世界王者ハルク・ホーガンのライバル候補として売り出され、3月31日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたレッスルマニアの第1回大会でS・D・ジョーンズを9秒で秒殺、センセーショナルなデビューを果たす[3]。その後は先述の新日本再来日を経てWWFに定着し、ボビー・ヒーナンをマネージャーにホーガンとの連戦を開始。1986年4月7日のレッスルマニア2では、スチール・ケージ・マッチでホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦した[23]。同じヒーナン・ファミリーのビッグ・ジョン・スタッドとも超大型コンビを結成して、ホーガン&アンドレやマシーンズ(スーパー・マシーン&ビッグ・マシーン)を相手にスーパーヘビー級のタッグ抗争を繰り広げたが、1988年、体調悪化により一時引退することとなり、役者として映画やテレビドラマに出演した[24]。
1994年8月、テッド・デビアス率いるミリオンダラー・コーポレーションのメンバーとしてWWFに復帰[24][25]。翌1995年4月2日のレッスルマニアXIではジ・アンダーテイカーとも対戦したが[26]、全盛期のような活躍は見られず同年WWFを解雇された。
以降は各地のインディー団体を転戦し、1997年8月にはIWAジャパンにも参戦[27]、12年ぶりの来日を果たした。1999年にはAWAスーパースターズ・オブ・レスリングやJCWに登場[5]。2000年代もショー・ビジネス界での活動を行う一方[28]、インディー団体へのスポット出場を続けていた[24]。
2019年3月4日、糖尿病の合併症により61歳で死去[1][2]。
追記
得意技
獲得タイトル
- ワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング
- ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
- コンチネンタル・レスリング・アソシエーション
- AWAスーパースターズ・オブ・レスリング
脚注
外部リンク