1558年 のカレー包囲戦 (フランス語 :Siège de Calais、英語 :Siege of Calais)は、当時神聖ローマ帝国 側で第六次イタリア戦争 に参加していたスペイン王国 のオランダ侵攻を受けて、時のフランス王 アンリ2世 によって北フランスに緊急招集された王国の中将ギーズ公 フランソワ が、カレー の地を包囲した戦いのこと。この戦いにより1558年 1月8日 に、1347年 8月4日 以来イングランド 領となっていた[ 注釈 1] 同市は210年の時を経て、フランス王国 領に戻る ことになった。
背景
フランス におけるピカルディ地域圏の位置、カレーはこの真北に位置しイギリス海峡 を望む
12世紀 ごろ要塞化されたカレー の地は、1347年 イングランド王 エドワード3世 による1年弱に及ぶ包囲 の末イングランド 領となっていたが、後の百年戦争 により1453年 以降はイングランド唯一の大陸領土(ペイル・オブ・カレー (英語版 ) )となっていた。ブルゴーニュ公 シャルル・ル・テメレール [ 注釈 2] の死(1477年)とピカルディ 地方[ 注釈 3] のフランス王室への併合により、このカレーの領有をめぐる状況は変容しつつあった。しかしそれ以来1世紀に渡り、歴代のフランス王は豊かで技術的にもヨーロッパ で先行しているイタリア に注力していた。フランスやブルゴーニュの国境地帯に近く、両国の軍と守備隊が小競り合いをすることがよくあったというが、対立していたフランスとブルゴーニュはカレーが互いの手に渡るのを恐れていたためカレーはイングランドの支配下に留まり続けることになった。一方でイングランドは16世紀 に3回(1526年 、1544年 、1547年 )ピカルディへ向けた攻撃を行っており、フランス王国は悩まされていたといえる。
アンリ2世と協力し反スペイン同盟に与していた[ 3] [ 4] 時のローマ教皇 パウルス4世 の呼びかけで、1557年 にフランスは[ 注釈 4] 、イタリア戦争 を終結させるヴォセルの停戦 (フランス語 :Trêve de Vaucelles )を取り消し、ナポリ王国 に敵対行動を再開させた。これに対抗してスペイン王国 も、チェレゾーレ (英語版 ) 以来の戦闘行為を再開することとなり、ピカルディへ侵攻。当時のスペイン王フェリペ2世 (在位:1556年 - 1598年 )はサヴォイア公 エマヌエーレ・フィリベルト と同盟してサン=カンタンの戦い (英語版 ) にてアンヌ・ド・モンモランシー をして大敗せしめた。この戦いでモンモランシーは戦死を免れたものの、優秀な大将を破ったスペインはパリ への道を開くことに成功した。このような状況(フランスにとっての危機)において、軍を率いてイタリアへ進まんとしていたフランソワ・ド・ギーズ は、ピカルディに戻され、フランス軍中将に昇進することとなった。
1557年スペイン側で参戦したイングランドの遠征軍を退けるべく、アンリ2世は、コンピエーニュ 、モントルイユ 、ブーローニュ=シュル=メール に約30000人の兵士を集めて、冬にカレー を攻撃することを秘密裡に計画した。
包囲戦
1477年の地図。「Calais」と書かれた部分を含む黄色の部分が百年戦争後もイングランドが保持した「イングリッシュ・ペイル(English Pale)」あるいは「ペイル・オブ・カレー(Pale of Calais)」と呼ばれる地域である。
カレー近郊のユーの森 (フランス語 :Forêt d'Eu )の辺りには、衣服 、パン 、ワイン 、火薬 、肉 などが集められていたという。[ 5] また、自然の防壁がないため、イギリスによるカレー支配の維持は、莫大な費用によって維持・改良された要塞に依存していたといえる。
1558年 1月1日 (土曜日 )、フランスの前衛部隊はサンガット (フランス語 :Sangatte )、フレチュン (フランス語:Fréthun )、ニエール (フランス語:Nielles )を攻め落とすと、続く翌2日 リスバン砦(fort Risban)を占領し、3日 には砲兵がニューレイ砦(fort Nieulay)とリスバン砦に移動した[ 6] 。1月7日 の午前2時、攻撃に圧倒されたトーマス・ウェントワース (Thomas Wentworth, 2nd Baron Wentworth )卿は、町の鍵をフランスに渡すことにし[ 6] 、大勢が決した。
数日後、再征服した後背地 では、ギューヌ (フランス語:Guînes )とアメス(フランス語:Hames )のイングランド軍の防衛拠点も陥落した。最終的に1月23日 、フランス王アンリ2世がカレーに入城した。フランスの支配下に入った[ 注釈 5] カレーでは国境の画定、耕地や教区(後述する24教区)の再編成、村や教会の再建などがなされた。
この出来事はイングランドに衝撃を以て迎えられ、数ヵ月後、イングランド女王メアリ1世 は死の床[ 注釈 6] で親族にこう言ったという。
When I am dead and cut open, they will find Philip and Calais inscribed on my heart.
和訳すると「私が死んで(その体が)切り開かれたとき、人々は我が心臓にフィリップとカレーの名が刻まれているのを見つけるだろう。」となる。フィリップはメアリの夫でスペイン王フェリペ2世のこと。これはイングランドの共同統治者としての名前である。
再編された教区
1360年のカレー
教区は以下の24区に再編された。
その後
その後、総督であったウェントワースとカレーとギューヌのイングランド人はイギリスに送り返され、カレーはフランス領復帰を記念して「再征服国(フランス語 :Pays reconquis )」と改名された。この戦いによりフランソワ・ド・ギーズ はスペイン軍に反撃できるようになった。夏の間にティオンヴィル とアルロン を奪還し、翌1559年 カトー・カンブレジ条約 が調印された時にもルクセンブルク に侵攻しようとしていた。同条約ではカレーが仏領として認められ両国国境はドーバー海峡 で確定した。
この勝利により、アンリ2世 は一連の戦いで失った名声を回復することができた。カレーの攻略は、ヨーロッパにサン=カンタンの戦いに匹敵しうるほどの大きな影響を与えた。具体的な渚山として挙げられるのは、アンリ2世の息子(王太子)フランソワ(後のフランソワ2世 )とスコットランド女王 のメアリー・スチュアート との結婚[ 8] [ 注釈 7] である。王妃が嗣子なく亡くなった場合、スコットランドはフランスに併合される条項があった。さらにこの結婚は、メアリー・スチュアートがイギリス王位継承権を有していたため、英仏同盟、あるいはそれにあたるものであった。これは、イングランドが覇権 争いで常にフランスと無視できないという明確な脅しであった。アンリ2世もメアリーこそ正当なイングランド王位継承権者であると主張し1559年 9月にはイングランドとの講和条約締結の後に、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、メアリーがイングランド王位継承権者であることを示す紋章 を発表し、エリザベス1世 を激怒させたという。
脚注
注釈
^ カレー包囲戦 (1346年-1347年) 参照。
^ 1468年 にイングランド王エドワード4世 の妹マーガレット・オブ・ヨーク を第3の妻として迎えたほか、ブルゴーニュ戦争 ではフランスと相対し、ハプスブルク家 を乗っ取って神聖ローマ皇帝 に即位せんとしていたといわれている。
^ 時のフランス王アンリ2世を含むヴァロワ=アングレーム家 を傍流とするヴァロワ家 は、カペー朝 のフィリップ3世 の4男シャルル が、このピカルディ内の現在エーヌ県 とオワーズ県 にあたる、ヴァロワ (Valois)という地域に封じられヴァロワ伯となったのが始まりである。
^ なお、この年長引く戦争によりスペインともども破産を宣言していた。
^ この後ユグノー戦争 の間、一時的にスペイン領となる。1598年ヴェルヴァン条約 によるユグノー戦争終了に伴って仏領に復帰。
^ 1558年 11月17日 [ 7] 卵巣腫瘍により死去。
^ 1558年4月24日結婚。イングランドの政権を握ったサマセット公 エドワード・シーモア から逃れていたメアリーはフランス育ちであった。
出典
^ Tony Jaques (2007). Dictionary of Battles and Sieges: A-E . Greenwood Publishing Group. p. 184. ISBN 978-0-313-33537-2 . https://books.google.com/books?id=3amnMPTPP5MC&pg=PA184 27 April 2013 閲覧。
^ a b Anna Whitelock, "'Woman, Warrior, Queen': Rethinking Mary and Elizabeth", Tudor Queenship: The Reigns of Mary and Elizabeth , ed. Alice Hunt and Anna Whitelock, (Palgrave Macmillan, 2010), 179.
^ バンソン、P154。
^ スチュアート、P229 - P230、プロスペリ、P82、石鍋、P173。
^ Alain Derville et Albert Vion, Histoire de Calais , Westhoek, 1985.
^ a b Pays du Nord , no 81.
^ Mary I queen of England Encyclopædia Britannica
^ 佐藤、p. 292
参考文献
de La Châtre de La Maisonfort, Claude . Mémoire sur les sièges de Calais et de Thionville . 、Abbé Lenglet du Fresnoyによって1744年に出版(『Journal de Henri III 』第3巻の冒頭)、J. A. Buchon (1836). Choix de Chroniques et Mémoires sur l'histoire de France . Paris: A. Desrez. に収録
デヴィッド・ポッター(David Potter)、« The duc de Guise and the Fall of Calais, 1557-1558 »、The English Historical Review , Oxford University Press、第98巻 1983年7月, p. 481-512 (JSTOR 569781)
ロミエ, ルーシェン (1914). Les origines politiques des guerres de religion . Paris: Perrin . ;
ベルトラン・ハーン『Une paix pour l'éternité : la négociation du Traité de Cateau-Cambrésis 』、第四章『Un nouvel équilibre imposé par les armes (1557-1558)』カサ・デ・ベラスケス図書館、2017年 、61-71ページ、OpenEdition Books
関連項目