カルロ・エマヌエーレ3世 (イタリア語: Carlo Emanuele III、1701年4月27日 - 1773年2月20日[1])は、サルデーニャ王国の第2代国王(在位:1730年9月3日 - 1773年2月20日)。ヴィットーリオ・アメデーオ2世と妃アンナ・マリーア・ドルレアンスの子。
生涯
1701年、トリノでサルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世の次男として生まれた。兄のヴィットーリオ・アメデーオが1715年に天然痘で死去したため跡継ぎになった。
1730年、父が精神疾患により退位するとサルデーニャ王になった。翌年に父が復位しようとしたためリヴォリ城(イタリア語版)に幽閉した。
ポーランド継承戦争ではフランス側のスタニスワフ・レシチニスキを支持し、ロンバルディアを占領した。しかし、スペイン王フェリペ5世が参戦の代償にミラノ公国の領有を要求したためこれに反発し、交渉は紛糾した。フランス・スペイン・サルデーニャ連合軍はマントヴァを無事占領したが、結局フェリペ5世の要求が通り、1738年のウィーン条約でサルデーニャはトルトーナやノヴァーラを獲得するにとどまった[2]。
オーストリア継承戦争ではオーストリア側で参戦し、フランス・スペイン連合軍を相手に苦戦したが、1746年以降はオーストリアの援助もあって盛り返し、また主戦場がネーデルラントに移ったため無事勝利した。アーヘンの和約でサヴォワ、ニースを取り返し、さらにヴィジェーヴァノも得た[2]。
その後は七年戦争への参戦を見送って内政に徹し、相次ぐ戦争で荒廃したサルデーニャは軍隊やサッサリ大学、カリャリ大学などを再建した。1773年にトリノで没し、子のヴィットーリオ・アメデーオ3世が王位を継いだ。
家族
1722年、プファルツ=ズルツバッハ公テオドール・オイスタッハの娘アンナ・クリスティーナ・ルイーザ・デル・パラティナート=スルズバックと結婚した。夫の即位前に死去したため、王妃にはなっていない。
- ヴィットーリオ・アメデーオ・テオドロ(英語版)(1723年 - 1725年)
1724年、先妻アンナ・クリスティーネ・ルイーゼの従妹でヘッセン=カッセル家傍系のヘッセン=ローテンブルク辺境伯エルンスト2世レオポルトの娘ポリッセナ・ダッシア=ローテンブルグと再婚した。ポリッセナは1735年に死去した。
- ヴィットーリオ・アメデーオ3世(1726年 - 1796年) - サルデーニャ王
- エレオノーラ(英語版)(1728年 - 1781年)
- マリア・ルイーザ(英語版)(1729年 - 1767年)
- マリア・フェリーチタ(英語版)(1730年 - 1801年)
- エマヌエーレ・フィリベルト(英語版)(1731年 - 1735年)
- カルロ・フランチェスコ・ロムアウド(1733年)
1737年、ロレーヌ公レオポルトの娘で、母方の従妹にあたるエリザベッタ・テレーザ・ディ・ロレーナと再婚した。エリザベッタは1741年に死去した。
- カルロ・フランチェスコ(英語版)(1738年 - 1745年)
- マリア・ヴィットーリア・マルゲリータ(英語版)(1740年 - 1742年)
- ベネデット(1741年 - 1808年) - シャブレー公(英語版)
脚注
外部リンク