オルリー (Orly)は、フランス、イル=ド=フランス地域圏、ヴァル=ド=マルヌ県のコミューン。コミューン内にはオルリー空港がある。
パリの南約9km、ウルポワ地方(Hurepoix)に属する。オルリーの領域はセーヌ川左岸に垂直に広がり、東の氾濫原に伸び、西のロンボワイヨ高原(Plateau de Longboyau)の丘陵も含まれる。
9世紀から10世紀のオルリーの名は、Aureliacumであった。これはローマ人の人名Aureliusに由来する。その後Orliacum、Orleioとなり、11世紀にはオルリ(Orli)となった。
オルリーの旧市街の位置は、近代に入って開拓されるまで、セーヌ川沿いおよそ2000ヘクタールの湿地に近かった。そのために2つのケルト語の語源が挙げられている。
10世紀後半、オルリーの地には教会があった。11世紀、オルリーを領有していたのはノートルダム・ド・パリの教会参事会であった。12世紀には製粉所の存在が記された。1250年頃、ノートルダム・ド・パリの教会参事会員がオルリーから直接税を取り立てることに決まった。住民の多数を占める農奴は納税を拒否した。彼らのうち16人が拘束され、支払いを約束させられた。農民たちは摂政王妃ブランシュ・ド・カスティーユに訴え出た。
百年戦争中の1360年、オルリーはイングランド軍に荒らされ、大勢の成人男性が殺害された。
1791年、革命後の新政府樹立をオルリー住民は熱狂的に歓迎した。19世紀半ば、郵便電信局を備えた現代的な市街がつくられた。1910年から1938年にかけて数百戸の住宅が建ち、1940年には人口4,000人を数えた。オルリーの高原にできた飛行場は先駆けとなり、1945年に世界的な空港となった。
1935年以降、コミューンの政治は社会主義者と共産主義者が優勢で、現在も連合左翼の影響が強い。第二次世界大戦中、多くの地元政治家や地元議員たちがレジスタンス活動に参加し、追放されたり弾圧の犠牲となった。
戦後、コムギ、薬用植物、ブドウが栽培されていた畑が建設用地となり、小さな村は現代的な都市へ生まれ変わった。