エリック・ウィナルダ (Eric Boswell Wynalda 1969年6月9日 - ) は、アメリカの元サッカー選手、スポーツキャスター。現在はFOXスポーツ1でサッカー解説をしつつ、北米サッカーリーグ(NASL)のアトランタ・シルバーバックスのテクニカルダイレクターの職に就いている。
ウィナルダは1996年のメジャーリーグサッカー(MLS)で最初のゴールを記録した選手として、また、2008年まではアメリカ代表の最多得点記録者でもあった。ウィナルダは「狡猾で、ボールのないときにも精力的に動き、強烈なシュートの持ち主」と評された。[1]2004年にアメリカサッカー殿堂に選ばれている。
ユースと大学時代
デンマーク系アメリカ人のウィナルダは、ウエストレイクビレッジで生まれ育った。少年の頃、ウィナルダの父親がコーチをしていたウエストレイクウルブスに所属し、全米ユースサッカー協会(英語版)(AYSO)の州大会で優勝した。その年、そのリーグの他の全チームの得点数よりも多くのゴールを挙げた(16試合58ゴール)。ウィナルダのサッカー技術は年々向上し、ウエストレイク高校にいた時には3度の全州選抜に選ばれ、のちに代表でもともに活躍するコビ・ジョーンズとも知り合った。
ウィナルダはサンディエゴ州立大学(SDSU)に進学し、1987年から1989年まで大学のチームであるアズテクスの一員としてプレーし34ゴールと25以上のアシストを3シーズンで記録した。1年次にSDSUは全米大学体育協会(NCAA)のサッカー選手権でブルース・マーレイが率いるクレムソン・タイガーズに辛酸をなめた。SDSUにいる間、並行して地元のセミプロクラブ、ウエスタン・サッカー連盟(英語版)のサンディエゴ・ノーマッズで2シーズンを過ごし、1988年に1試合、1989年に5試合をノーマッズでプレーしている。[2]
プロキャリア
1990年ワールドカップに向けて、ウィナルダはアメリカ合衆国サッカー連盟(USSF)と契約した。ワールドカップの後に、ローン移籍で北米プロサッカーリーグのサンフランシスコベイ・ブラックホークス(英語版)へ移籍した。3シーズン近くブラックホークスに所属はしていたものの、指折り数えるほどしかチームのためにはプレーせず、ほとんどがアメリカ代表チームのために時間を割いていた。
1992年8月、USSFは再びローン移籍でドイツ・ブンデスリーガの1.FCザールブリュッケンに4万5千ドルで移籍した。ザールブリュッケンに到着したウィナルダは、ドイツのトップリーグ初のアメリカ人選手として迎えられた。ウィナルダはすぐにシーズンの前半で8ゴールとクラブにインパクトを残した。この活躍でザールブリュッケンはUSSFからウィナルダを40万5千ドルで買い取った。ウィナルダはブンデスリーガの最優秀新人賞を獲得、それはアメリカ生まれの選手が獲得した賞として、世界中に大きな衝撃を与えた。2年目のシーズンである1993-1994年は14ゴール25アシストを叩き出し、リーグのベストプレーヤーとして名を挙げられ、これもまた、アメリカ出身選手としての快挙としてヨーロッパのリーグでの快挙となった。ウィナルダは、シーズン終了後に2部クラブのVfLボーフムに85万ドルで移籍した。ウィナルダは8月30日にヘルニアの手術を受けたからである。
ウィナルダは1996年にアメリカに戻り、メジャーリーグサッカー(MLS)と契約した。新しいリーグを創設するにあたって、有名選手は新しいチームに均等に配分されることになっていて、リーグはウィナルダをサンノゼ・クラッシュに充てた。4月6日、D.C.ユナイテッド戦でリーグ創設初のゴールを決めた。この年、ウィナルダはUSサッカーアスリートオブザイヤーを獲得している。
ウィナルダは1999年にメキシコのクラブ・レオンにローン移籍した。ウィナルダはレオンにいる間、前十字靭帯と左膝半月板損傷で何ヶ月もの間、戦線離脱の苦痛な日々を過ごした。[3]その後、1999年の最初の11試合を欠場し、クラッシュはマイアミ・フュージョンにウィナルダをトレードした。2000年8月、今度はフュージョンがニューイングランド・レボリューションにイヴァン・マッキンリー(英語版)とトレードしたが、これはフュージョンの攻撃陣を弱体化させる結果になった。
2001年5月3日、レボリューションはシカゴ・ファイアーとの間にジョン・ウォリニークとの間にトレードが成立し、ウィナルダのMLSでのキャリアはこのシーズン限りで終わり、MLSでの通算はレギュラーシーズンで34ゴール、プレーオフで2ゴールという記録を残した。2002年、ウィナルダはロサンゼルス・ギャラクシーに加入するという話があり、ギャラクシーで引退するという話もあった。しかしギャラクシーとの交渉はうまく行かず、ウィナルダはユナイテッド・サッカーリーグ(USL)のチャールストン・バッテリーと契約した。チームに参加してすぐのプレシーズンマッチで前十字靭帯を断裂し[4]、引退をすることを決意したためサッカー解説者の道へ進んだ。
アメリカ代表
ウィナルダは、1990年2月2日のコスタリカ戦で代表初出場を果たした。同年3月14日、ウィナルダはUSSFと契約し代表チームに常に帯同することとなった。[5]イタリアワールドカップでのチェコスロバキア戦でレッドカードを受けた。
1994年のワールドカップ、スイス戦で25.6メートルのフリーキックを決め、引き分けに持ち込んだ。そして、コパ・アメリカ1995では全試合に出場し、チリとアルゼンチンを相手にゴールを決めている。
1998年、ウィナルダは3度目のワールドカップ(フランス開催のワールドカップ)に参加し、3度のワールドカップメンバー入りは当時、アメリカ史上タブ・ラモス、マルセロ・バルボアと合わせ、3人だけの偉業だった。しかし、ウィナルダはノーゴールで大会を終えた。
ウィナルダは代表を引退し、残した記録は106試合34ゴールだった。ウィナルダのゴール記録は2007年にランドン・ドノバンがCONCACAFゴールドカップでのメキシコ戦でのペナルティキック(PK)を決めるまで追いつかれることはなく、翌年のスウェーデンとの親善試合でのPKで遂に新記録を打ち立てられた。
ウィナルダはアメリカの1990年代の最高の選手、CONCACAFの同年代の最高の選手とされ、2004年にはアメリカサッカー殿堂入りを果たした。
代表戦ゴール
# |
日時 |
場所 |
対戦相手 |
スコア |
最終結果 |
大会
|
1 |
1990年2月4日 |
マイアミ, フロリダ州 |
コロンビア |
1–1 |
1–1 |
マルボロカップ
|
2 |
1990年4月8日 |
セントルイス, ミズーリ州 |
アイスランド |
1–0 |
4–1 |
親善試合
|
3 |
2–0
|
4 |
1990年5月5日 |
ピスタカウェイ, ニュージャージー州 |
マルタ |
1–0 |
1–0 |
親善試合
|
5 |
1990年5月30日 |
エッシェン, リヒテンシュタイン |
リヒテンシュタイン |
3–1 |
4–1 |
親善試合
|
6 |
1991年6月1日 |
ボストン, マサチューセッツ州 |
アイルランド |
1–0 |
1–0 |
親善試合
|
7 |
1991年7月1日 |
パサデナ, カリフォルニア州 |
グアテマラ |
3–0 |
3–0 |
1991 CONCACAFゴールドカップ
|
8 |
1992年2月2日 |
ポンティアック, ミシガン州 |
CIS |
1–0 |
2–1 |
親善試合
|
9 |
1992年4月4日 |
パロアルト, カリフォルニア州 |
チリ |
2–0 |
5–0 |
親善試合
|
10 |
5–0
|
11 |
1992年4月29日 |
ダブリン, アイルランド |
アイルランド |
1–4 |
1–4 |
親善試合
|
12 |
1992年10月19日 |
リヤド, サウジアラビア |
コートジボワール |
3–1 |
5–2 |
キング・ファハド・カップ1992
|
13 |
1993年7月10日 |
ダラス, テキサス州 |
ジャマイカ |
1–0 |
1–0 |
1993 CONCACAFゴールドカップ
|
14 |
1993年7月14日 |
ダラス, テキサス州 |
パナマ |
1–1 |
2–1 |
1993 CONCACAFゴールドカップ
|
15 |
1994年6月18日 |
ポンティアック, ミシガン州 |
スイス |
1–1 |
1–1 |
1994 FIFAワールドカップ
|
16 |
1995年7月8日 |
パイサンドゥー, ウルグアイ |
チリ |
1–0 |
2–1 |
コパ・アメリカ1995
|
17 |
2–0
|
18 |
1995年7月14日 |
パイサンドゥー, ウルグアイ |
アルゼンチン |
3–0 |
3–0 |
コパ・アメリカ1995
|
19 |
1996年1月12日 |
アナハイム, カリフォルニア州 |
トリニダード・トバゴ |
1–1 |
3–2 |
1996 CONCACAFゴールドカップ
|
20 |
2–1
|
21 |
1996年1月15日 |
アナハイム, カリフォルニア州 |
エルサルバドル |
1–0 |
2–0 |
1996 CONCACAFゴールドカップ
|
22 |
1996年1月20日 |
ロサンゼルス, カリフォルニア州 |
グアテマラ |
1–0 |
3–0 |
1996 CONCACAFゴールドカップ
|
23 |
1996年5月26日 |
ニューブリテン, コネチカット州 |
スコットランド |
1–1 |
2–1 |
親善試合
|
24 |
1996年6月16日 |
パサデナ, カリフォルニア州 |
メキシコ |
1–0 |
2–2 |
1996 U.S.カップ(英語版)
|
25 |
1996年8月30日 |
ロサンゼルス, カリフォルニア州 |
エルサルバドル |
2–0 |
3–1 |
親善試合
|
26 |
1996年11月3日 |
ワシントンD.C. |
グアテマラ |
1–0 |
2–0 |
1998ワールドカップ予選
|
27 |
1996年11月10日 |
リッチモンド, バージニア州 |
トリニダード・トバゴ |
2–0 |
2–0 |
1998ワールドカップ予選
|
28 |
1997年1月29日 |
昆明, 中国 |
中国 |
1–2 |
1–2 |
親善試合
|
29 |
1997年3月16日 |
パロアルト, カリフォルニア州 |
カナダ |
1–0 |
3–0 |
1998ワールドカップ予選
|
30 |
1997年3月23日 |
サンホセ (コスタリカ), コスタリカ |
コスタリカ |
1–1 |
2–3 |
1998ワールドカップ予選
|
31 |
1997年10月8日 |
ワシントンD.C. |
ジャマイカ |
1–0 |
1–1 |
1998ワールドカップ予選
|
32 |
1998年2月1日 |
オークランド, カリフォルニア州 |
キューバ |
2–0 |
3–0 |
1998 CONCACAFゴールドカップ
|
33 |
1999年11月17日 |
マラケシュ, モロッコ |
モロッコ |
1–1 |
1–2 |
親善試合
|
34 |
2000年2月12日 |
マイアミ, フロリダ州 |
ハイチ |
2–0 |
3–0 |
2000 CONCACAFゴールドカップ
|
引退後のサッカーとの関わり
2005年、USLプレミアデベロップメントリーグのベイカーズフィールド・ブリゲード(英語版)がウィナルダをテクニカルダイレクターとして迎え入れ[6]、2007年には、彼を短期ながらも選手としてシーズン終盤に登録する契約をした。[7]同年5月1日、シーズンを通しての契約をブリゲードと取り交わすことに合意した。[8]
彼はまた、ロサンゼルスにある30歳以上限定のアマチュアチーム、ハリウッド・ユナイテッド(英語版)でも、元代表の仲間、アレクシー・ララスとジョン・ハークス、元フランス代表のフランク・ルブーフ、元ウェールズ代表のヴィニー・ジョーンズ、そして俳優のアンソニー・ラパーリアとサッカーに興じている。[9]なお、テッドは、ロサンゼルス・オリンピックサッカーリーグに所属している。[10]
CAL FCの監督として
ウィナルダは2012年以来Cal FC(英語版)の監督を務め、同年のUSオープンカップでは4回戦に駒を進め、USLプロフェッショナルリーグのウィルミントン・ハンマーヘッズFCに4-0という番狂わせを演じ[11]、MLSのポートランド・ティンバーズにも1-0と勝利した。
Cal FCのティンバーズに対しての勝利は、アマチュア組織であるUSASA(英語版)史上初めてプロであるMLSのチームを倒したことでもあり、それはPK戦以外での勝利が初めてだということでもあった。これはUSオープンカップ史上最大の番狂わせであり、特筆すべきは、ティンバーズがレギュラーメンバーで戦っていたということであった。[12][13][14][15][16][17]
アトランタ・シルバーバックス時代
2012年7月2日、ウィナルダは北米サッカーリーグのアトランタ・シルバーバックスの暫定監督とチームアドバイザーに就任することが発表された。[18]
2014年1月7日、シルバーバックスはウィナルダを今度は正式な監督として迎え入れ、テクニカルダイレクターの職も兼ねると発表した。これはプロのサッカークラブでも稀な兼任であった。[19]
サッカー解説者として
引退後、ウィナルダはESPNでサッカー解説者としてのキャリアを歩み始めた。
2006年のワールドカップの英語放送のスタジオ解説者として、ララスと共に仕事をこなした。ウィナルダは大会中に、アメリカ代表監督のブルース・アリーナに辛辣なコメントを呈していた。しかし、ワールドカップ後のMLSカップのプレーオフの解説を彼と一緒にこなした時には、友好的なペアとして、2007年のESPNがカバーする代表戦放送の解説を成功させた。同年のMLSではESPNとABCの解説者の一人として活躍した。
2008年、ロサンゼルスを基盤とした、MLSライセンスを持つメジャーリーグサッカーマガジン誌のコラムニストになった。
2009年8月には、FOXサッカーチャンネルがスティーブン・コーエン(英語版)に代わり、毎週のサッカー討論番組、「FOXフットボールフォーンイン」の共同ホストを、CAL FCにおいてUSオープンカップで躍進した時のコーチであるニック・ウェブスター(英語版)とすると発表した。さらに、ウィナルダはMLSチャンネルの解説者、UEFAチャンピオンズリーグのスタジオ解説者として、試合前、ハーフタイム、試合後の各箇所で解説を始めた。
2010年の6月から7月にかけて、ヤフースポーツのビデオブログ解説者としてもワールドカップをカバーしている。
彼はいま、FOXスポーツ1の毎日放送される番組、「FOXサッカーデイリー」の解説者をしている。
脚注
外部リンク
タイトル・受賞歴 |
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男子 |
1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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女子 |
1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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