エゲリアは王政ローマの第2代王でサビーニー人のヌマ・ポンピリウスのニュンペーとしての配偶者だったという伝説があるため[2]、ローマと結び付けられるようになった。ユウェナリスの記した伝説によると、ヌマ・ポンピリウスはエゲリアの神聖な木立ちで彼女と会い、そこで彼女がヌマに賢明で正しい王になる方法を教えた(リウィウス i. 19)。そしてヌマはエゲリアからローマの宗教的構成の原則を教えられたとしているが、ユウェナリスの時代にはそのような伝統が厳しい批判にさらされていた[3]。ヌマが亡くなるとエゲリアは泉に変化したとされている[4]。
ローマ
ヌマがエゲリアと会っていたという神聖な木立ちは、セルウィウス城壁のカペーナ門のすぐそばにあった。紀元2世紀にヘロデス・アッティクスがそのそばにあったヴィッラを相続し、自然の地形を生かした地所として作りなおした。このとき自然の洞窟を改造してアプスを終端とするアーチにし(写真参照)、その壁龕にエゲリアの像を設置した。その表面を緑色と白の大理石で装飾し、床には緑色の斑岩を敷き詰め、モザイクによるフリーズを施した。これを Ninfeo d'Egeria と呼ぶ。また、アルモネ川に注いでいた数ある泉の1つから水をひいて Lacus Salutaris(健康の湖)と呼ばれる大きなプールを作った。ユウェナリスは建築によって人工的に装飾された様を次のように嘆いている(『風刺詩集』3巻 17–20)。
Nymph of the Spring! More honour’d hadst thou been,
If, free from art, an edge of living green,
Thy bubbling fount had circumscribed alone,
And marble ne’er profaned the native stone. (William Gifford 訳)