アーサー・キット (Eartha Kitt、出生名Eartha Mae Keith、1927年 1月17日 – 2008年 12月25日 [1] 。アーサ・キット のカナ表記もなされる)は、アメリカ合衆国 の歌手 、女優 、キャバレー ・スター。その極めて個性的な歌い方や、1953年 のヒット曲「C'est Si Bon 」、また、息の長いクリスマスのノベルティ・ヒット「Santa Baby 」などによって知られている。オーソン・ウェルズ は、キットのことを「世界一エキサイティングな女性」と呼んだ[2] 。1960年代のテレビ・シリーズ『バットマン』の最後のシーズン(第3シーズン)で、キットは他の仕事との掛け持ちができなくなったジュリー・ニューマー に代わり、キャットウーマン 役を引き継いだ。ディズニー のアニメ映画『ラマになった王様 』(2000年 )で、キットはイズマ (Yzma) の声を担当した。
経歴
生い立ち
キットは、本名アーサー・メイ・キース (Eartha Mae Keith) として、サウスカロライナ州 コロンビア に近い、オレンジバーグ郡 の小村ノース (North ) の綿花 プランテーション に生まれた。キットの母親は、チェロキー とアフリカ系アメリカ人 の血統を引いており、父親はドイツ系 ないしはオランダ系 の人物だった。キットは、強姦 によって生まれた子どもであった[3] [4] 。
アーサー(キット)は、アンナ・メイ・ライリー (Anna Mae Riley) というアフリカ系アメリカ人の女性に育てられ、この養母を実母だと信じきっていた。アーサーが8歳のとき、養母は同じアフリカ系の男性と同棲するようになったが、男性は、アーサーの肌の色が比較的白いことを嫌って、養女とすることを拒んだ[3] 。このためアーサーは、他の家族に引き取られ、ライリーが没するまでその家で育てられた。その後、アーサーはニューヨーク 市のマミー・キット (Mamie Kitt) のもとに送られて、一緒に生活することとなり、この女性が実母だと知ることになった[要出典 ] 。アーサーは父については、姓はキットといい、おそらくは自分が生まれた農場の持ち主の息子だったのであろうということ以外は何も知らなかった[3] 。もっとも、各新聞が報じたキットの訃報によれば、彼女の父は「貧しい綿花農家」であったとされる[5] 。
キャリア初期
カール・ヴァン・ヴェクテン 撮影のキットの写真。1952年10月。
キットのキャリアは、1943年 のキャサリン・ダナム舞踊団 (Katherine Dunham Company ) への参加から始まり、1948年 までこの舞踊団に所属していた。特徴がある声をもった才能豊かな歌手として、キットは、「Let's Do It 」、「Champagne Taste」、「C'est Si Bon 」(スタン・フリーバーグ (Stan Freberg ) はこの曲をもとに有名なバーレスク を制作した)、「Just an Old Fashioned Girl」、「Monotonous 」、「Je Cherche Un Homme (I Want A Man)」といったヒット曲を出し、特に1953年 にリリースされた「Santa Baby 」は重要なヒット作となった。キットのユニークなスタイルは、ヨーロッパで公演を重ねていた数年間でフランス語 に堪能になったことで、ますます磨きがかけられた。キットは、公演を英語で行なっていたが、いつも軽くフランス語の感覚が盛り込まれることで、より豊かなものになっていた。キットは4言語を話し、7言語で歌ったが、数多くのキャバレー公演のライブ音源が示すように、それを難なくこなしてみせている。
最盛期
1950年 、オーソン・ウェルズ は、舞台『フォースタス博士 』の「トロイのヘレン 」役にキットを抜擢し、キットは初めて主役のひとつを演じることになった。その後、キットはレビュー 『New Faces of 1952 』の舞台に出演し、その後も永く彼女の持ち歌として知られることになった「Monotonous 」と「Bal, Petit Bal」を歌った。1954年 に20世紀フォックス がこのレビューを映画化し『New Faces 』を制作した際、キットは「Monotonous」、「ウスクダラ 」、「C'est Si Bon 」の3曲を歌った[6] 。ウェルズとキットは、キットが主演した1957年 のミュージカル『Shinbone Alley 』の公演期間中に関係を持ったのではないかと盛んに噂されたが、2001年 6月に『ヴァニティ・フェア (Vanity Fair )』誌のジョージ・ウェイン (George Wayne) のインタビューに応えたキットは、きっぱりとこれを否定し、「私はオーソン・ウェルズとセックスしたことは1度もないわよ」、「一緒だったのは仕事がらみのときだけ、それっきりよ」と語った[7] 。1950年代のキットは、このほか『The Mark of the Hawk 』 (1957年 )、『St. Louis Blues 』 (1958年 )、『Anna Lucasta 』 (1959年 ) といった映画にも出演した。
キットは、トルコの民謡をもとにした「ウスクダラ 」のように、アメリカ合衆国の聴衆にとって異国情緒のあるレパートリーももっていたが、1955年 には「証城寺の狸囃子 」を、ところどころ日本語を残した英語の歌詞で「Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon)」としてレコーディングした[8] 。
1950年代から1960年代はじめにかけて、キットはレコーディングに加え、映画、テレビ、ナイトクラブへも出演し、ブロードウェイでは『Mrs. Patterson 』(1954年 - 1955年 )、『Shinbone Alley 』(1957年 )、短期間で打ち切られた『Jolly's Progress 』(1959年 )の舞台に立った[9] 。1964年 には、カリフォルニア州 サン・カルロス (San Carlos ) のサークル・スター劇場 (Circle Star Theater ) の開設を支援した。1960年代後半には、テレビ・シリーズ『バットマン』で、ジュリー・ニューマー からキャットウーマン 役を引き継いだ。
反戦発言の影響
アメリカ合衆国大統領 リンドン・B・ジョンソン の政権下であった1968年 、ホワイトハウス での昼食会で反戦の発言をしたことがきっかけとなり、キットは多くの仕事を失ってしまった[10] [11] 。昼食会に招かれたキットは、大統領夫人レディ・バード・ジョンソン にベトナム戦争 について尋ねられ、「この国で最高の人たちを、撃たれて、潰されるために送っているんですもの。子どもたちが反抗して、草 を吸ったりするのも不思議じゃないわ」と応えたのであった。
やり取りの中で、キットは次のように述べた。
アメリカの子どもたちは、理由もなく反抗しているわけではありません。子どもたちは理由もなくヒッピーになったりしません。
サンセット大通り (
Sunset Boulevard ) で起きていることは、理由もなく起きているわけではありません。何かに対して、反抗しているんです。この国には、いろんな人たち、とりわけ母親たちを、焼け焦がすようなことがいっぱいあるんですよ。育てている息子たち—私にも分かることだけど、奥様にもお子様がおいででしょう—そういう人たちは、育てた息子たちを戦争に送り出さなければいけないんだって感じているんです
キットの発言に、ジョンソン夫人は涙を流したと言われているが、この発言は順調だったキットのキャリアを大きく狂わせることになった[12] 。世間の評価は極端な賛否に分かれた。合衆国から排斥されたキットは、ヨーロッパ やアジア に活動の場を求めるようになった。
ブロードウェイ
キットは、1978年 に、ブロードウェイのスペクタクル・ミュージカル『ティンブクトゥ (Timbuktu! )』(原作となった『Kismet 』の舞台をアフリカに移したもの)で、ニューヨークに凱旋した。このミュージカルのある曲には、マホウンという、大麻の調合のレシピを歌うくだりがあり、キットが猫が喉を鳴らすような声で官能的に歌った「長い木のスプーンで掻き混ぜ続ける」というリフレインは、特徴的なものであった。
後年
コンサートで歌うアーサー・キット。2006年撮影。
1978年 、キットはロック ・グループ、スティーリー・ダン のアルバム『彩(エイジャ)(Aja )』のテレビ・コマーシャルに声の出演をした。キットは、『Thursday's Child 』(1956年 )、『Alone with Me 』(1976年 )、『I'm Still Here: Confessions of a Sex Kitten 』(1989年 )と、生涯に3冊の自伝を公刊した。
1984年 、キットはディスコ 曲「Where Is My Man 」のヒットによって音楽チャートに返り咲き、初めてゴールド・ディスクの認定を受けた。「Where Is My Man」は全英シングルチャート でもトップ40入りを果たし、最高36位まで上昇した[13] 。この曲は『ビルボード 』誌のダンス・チャート (National Disco Action ) でもトップ10入りし、最高7位まで上昇した[14] 。この曲の成功に続いてアルバム『I Love Men 』がレコード・シャック (Record Shack) レーベルから発売された。キットは英米にまたがって、ナイトクラブに新しい聴衆を獲得したが、その中にはまったく新しい世代の男性ゲイのファンたちが含まれていた。これに応えてキットは、HIV/AIDS 患者への支援を行なう組織のために、数多くの慈善公演を行なった。アトランティック・エンタテイメント・グループ (Atlantic Entertainment Group )のエージェントであるスコット・シャーマン (Scott Sherman) がプロデュースした1990年 の資金集めのイベントでは、キットはジミー・ジェームズ 、ジョージ・バーンズ と共演した。この舞台では、最初、ジェームズが登場してキットの物真似をし、後からキットが登場してマイクを握るというのが定番の演出であった。この場面では、いつもスタンディング・オベーションが起こっていた。次にヒットしたのは、ブロンスキー・ビート をフィーチャーした1989年 の「Cha-Cha Heels」で、当初はディヴァイン が歌うはずの曲だったが、イギリスのダンス・クラブで好評を得て、全英チャートを32位まで上昇した。
1991年 、キットは、ジム・ヴァーニー (Jim Varney ) の子ども向けハロウィン 映画『Ernest Scared Stupid 』のハックモア老婦人 (Old Lady Hackmore) 役で、スクリーンに復帰した。1992年 、エディ・マーフィ 主演の映画『ブーメラン 』で、エロイーズ夫人 (Lady Eloise) 役を演じた。1990年代後半には、北アメリカを広く巡業した『オズの魔法使い 』の一座に加わり、西の悪い魔女役で舞台に立った。1995年 には、テレビ・シリーズ『The Nanny 』のあるエピソードに本人役で出演し、フランス語で歌い、「シェフィールド氏」と絡んだ。1996年 11月には、クイズ番組『セレブリティ・ジェパディ! 』にも出演した。2000年 には再びブロードウェイで、長続きしなかったマイケル・ジョン・ラキウザ (Michael John LaChiusa ) のミュージカル『The Wild Party 』で、マンディ・パティンキン とトニ・コレット の相手役を務めた。2000年代後半には、合衆国を広く巡業した『シンデレラ (Cinderella )』の一座に加わり、妖精のおばあさん 役で、デボラ・ギブソン やジェイミー=リン・シグラー (Jamie-Lynn Sigler ) と共演した。2003年 には、『Nine 』でチタ・リヴェラ (Chita Rivera ) の代役を務めた。2004年 のシーズンにニューヨーク のリンカーン・センター で行なわれた『シンデレラ』の特別公演における妖精のおばあさん役を、再演するものであった。
キットは、尋常ならざる役柄を引き受けることもよくあったが、1994年 にBBCラジオで『ジャングル・ブック 』に登場するインドニシキヘビ のカー (Kaa ) を演じたのもそのひとつである。キットは、その特徴ある声で、ディズニー のアニメ映画『ラマになった王様 』(2000年 )で、イズマ (Yzma) の声を担当し、初めてアニー賞 を受賞し、さらに同じ役をオリジナルビデオ 作品『ラマになった王様2 クロンクのノリノリ大作戦 』や、スピンオフ のテレビ・アニメ『ラマだった王様 学校へ行こう! 』でも担当し、2つのエミー賞と、さらに2つのアニー賞を、2007年から2008年にかけてテレビ・アニメの声優として受賞した。テレビ・アニメ『ジェニーはティーン☆ロボット 』では、女王ヴェクサスの声を担当した。
キットは晩年まで、ニューヨーク のマンハッタン にあるザ・ボールルーム (the Ballroom) やカフェ・カーライル (the Café Carlyle) といったキャバレー・シーンに、毎年出演し続けていた。
2010年 に放送されたアニメ『シンプソンズ 』のエピソード「Once Upon a Time in Springfield 」では、ピエロのクラスティ の昔の(2番目の)妻という設定で、キットがゲスト・スターとして登場するが、このキットの声は本人で、死去する1週間前に収録されたものが使用われている[15] 。
2006年 10月から12月初めにかけて、キットはオフ・ブロードウェイ・ミュージカル『Mimi le Duck 』に出演した。2007年 には、独立系の映画『And Then Came Love 』で、ヴァネッサ・ウィリアムズ と共演している。
2007年 8月、キットは、MACコスメティックス (Make-up Art Cosmetics ) の「スモーク・シグナル・コレクション」のスポークスパーソンとなった。この機会に、キットは「煙が目にしみる 」をレコーディングし直し、この録音はMACのウェブサイトで公開され、また、このコレクションを販売していたMACのすべての店舗で、ひと月にわたって流された。
私生活
キットは、化粧品業界の大物チャールズ・レヴソン (Charles Revson ) や、銀行家の資産を受け継いだジョン・バリー・ライアン3世 (John Barry Ryan III) と浮き名を流した後、キットは不動産投資会社の幹部だったジョン・ウィリアム・マクドナルド (John William McDonald) と1960年 6月6日 に結婚した[16] 。2人の間にはひとり娘キット・マクドナルド (Kitt McDonald) が1961年 11月26日 に生まれた。この結婚が1965年 に離婚に至った後は、キットは何人かの恋人たちとつきあった。
キットは長くコネチカット州 に居住し、何年もの間、ニュー・ミルフォード (New Milford ) のメリーオール (Merryall) 地区にある農場の、納屋を改装した家に住みながら、地元リトルフィールド郡 (Litchfield County ) 内各地の慈善活動や住民運動にも積極的に関わっていた。その後、ニューヨーク州 パウンド・リッジ (Pound Ridge ) へ移っていたが、2002年 [17] には、娘やその家族の近くに住むため、リトルフィールド郡南部にあるコネチカット州ウェストン (Weston ) に転居した。娘のキット・マクドナルドは、1987年 にチャールズ・ローレンス・シャピロ (Charles Lawrence Shapiro) と結婚し[18] 、ジェイソン (Jason) と レイチェル (Rachel) をもうけている。
社会活動家として
キットは、同性愛者の権利 を訴えて様々な場面で発言し、同性結婚 合法化を公然と支持し、これは公民権 の一部であるという信念をもっていた。キットは、「私がそれ(ゲイの結婚)を支持するのは、(ゲイではない)私たちが同じことを求めるからです。もし私にパートナーがいて、私に何かあったとしたら、私たちがともに築いてきたものから得られる利益は残されたパートナーに享受してほしいと思います。これって当然の公民権でしょう?」と述べたとされている。キットはLGBT関係の資金集めイベントに数多く出演し、メリーランド州 ボルティモア で行なわれた大規模な集会では、ジョージ・バーンズ やジミー・ジェームズと共演した。アトランティック・エンタテイメント・グループ のエージェントであるスコット・シャーマンは、「アーサー・キットはファンタスティックだ...こんなに数多くのLGBTイベントに協力して公民権を支援している」と述べている[19] 。
死去
キットは、大腸癌 により、2008年 のクリスマスの日に、コネチカット州ウェストンの自宅で死去した[1] [20] 。
おもな受賞とノミネーション
受賞
ノミネーション
出典・脚注
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^ “News From Indian Country - Eartha Kitt, Chanteuse, Cherokee, and a seducer of audiences, Walked On at 81 ”. Indiancountrynews.net (1927年1月17日). 2010年7月11日 閲覧。
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外部リンク