Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

芸研プロダクション

藝研株式会社
種類 株式会社
市場情報 消滅
略称 芸研プロダクション、芸研プロ、芸研
設立 1949年
事業内容 映画の製作・配給
代表者 熊谷久虎 第1期
中田博二 第2期
関係する人物 星野和平
倉田文人
佐分利信
原節子
会田吉男
猪俣勝人
岩井金男
森永健次郎
テンプレートを表示

芸研プロダクション(げいけんプロダクション)は、かつて存在した日本の映画製作会社である。時期により、第1期と第2期に大別される[1]。「芸研」とは映画芸術研究所(えいがげいじゅつけんきゅうじょ)の略であり、製作会社として後者で表記されることもあるが、通常は「芸研プロダクション」と表記される[2]。登記上の正式名称は藝研株式会社(げいけん-)である。

略歴・概要

1949年(昭和24年)に設立、熊谷久虎を代表に、俳優ブローカーの星野和平、映画監督の倉田文人森永健次郎、俳優の佐分利信らが取締役に就任した[2][3]。設立第1作は、倉田が監督、河津清三郎が主演した『殿様ホテル』で、前年1948年に東宝争議が終結し、製作を再開した東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)を使用して製作、芸研プロダクションが東宝と共同で配給した[3][4]。本作で、原節子の兄会田吉男が単独で撮影技師に抜擢されている[3][5]。その正式な「設立第1作」に先行し、ニュース映画的な短篇ドキュメンタリー映画スター家庭訪問記』を製作、同年1月10日に東京映画配給(現在の東映)が配給して公開している[6]

1950年(昭和25年)には、太泉映画(現在の東映、および東映東京撮影所)との提携製作を行い、佐分利信を『女性対男性』で映画監督としてデビューさせる[2][7]。同年、星野がマネジメントしていた原節子を主演に、太泉映画と提携して『アルプス物語 野性』を製作、いずれも東京映画配給が配給した[8]

翌1951年(昭和26年)3月末に太泉映画が合併して東京映画配給が東映になったのを機に、いちど芸研は閉じられ、星野は東京プロダクションを設立している[2]。1952年(昭和27年)には、星野は東京プロダクションも解散し、1954年(昭和29年)に日活の契約プロデューサー、1955年(昭和30年)には、新東宝に入社、取締役撮影所長に就任している[2]。同年、芸研プロダクションの第2期とされる時期が始まり、熊谷久虎が製作、倉田文人が監督した『ノンちゃん雲に乗る』を製作、星野がいる新東宝が配給して、同年6月7日に公開されている[1]

1957年(昭和32年)の資料によれば、同年の芸研の代表は、『ノンちゃん雲に乗る』『柿の木のある家』『検事とその妹』に「製作」あるいは「企画」としてクレジットされている中田博二である[9]。1961年(昭和36年)の『官報』によれば、中田は同年3月7日に破産宣告を受けており、これをもって芸研は活動を終えたと見られる[10]

フィルモグラフィ

ノンちゃん雲にのる』(監督倉田文人、1955年)。
第1期
第2期

脚注

  1. ^ a b c d 熊谷久虎アテネフランセ文化センター、2012年4月20日閲覧。
  2. ^ a b c d e 講演「佐分利信を再見する 第3回アナクロニズムの会」木全公彦、2009年10月10日、アテネフランセ文化センター、2012年4月20日閲覧。
  3. ^ a b c 殿様ホテルキネマ旬報映画データベース、2012年4月20日閲覧。
  4. ^ 殿様ホテル日本映画データベース、2012年4月20日閲覧。
  5. ^ 会田吉男、キネマ旬報映画データベース、2012年4月20日閲覧。
  6. ^ スター家庭訪問記日本映画製作者連盟、2012年4月20日閲覧。
  7. ^ 女性対男性、キネマ旬報映画データベース、2012年4月20日閲覧。
  8. ^ 野性、キネマ旬報映画データベース、2012年4月20日閲覧。
  9. ^ 『映画年鑑 1957』、p.750.
  10. ^ 官報』、大蔵省、1961年、p.414.
  11. ^ 青空天使、日本映画製作者連盟、2012年4月20日閲覧。
  12. ^ 青空天使東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年4月23日閲覧。
  13. ^ 狼人街、日本映画製作者連盟、2012年4月20日閲覧。
  14. ^ ノンちゃん雲に乘る、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年4月23日閲覧。
  15. ^ 第二次世界大戦の悲劇、日本映画情報システム、文化庁、2012年4月23日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク

Kembali kehalaman sebelumnya