橘 澄清(たちばな の すみきよ)は、平安時代前期の公卿。信濃守・橘良基の五男。橘氏是定。官位は従三位・中納言。
経歴
寛平2年(890年)文章生に補せられる。寛平6年(894年)渤海使・裴頲が伯耆国に到来すると伯耆権掾に任ぜられ、存問渤海客使・三統理平とともに使節の対応に当たっている。蔵人・兵部少丞を経て、宇多朝末の寛平9年(897年)従五位下・伊予介に叙任された。
醍醐朝前半は、讃岐権介・播磨介・伊予守・太宰大弐と専ら地方官を歴任する一方で、延喜2年(902年)従五位上、延喜6年(906年)正五位下、延喜9年(909年)従四位下と順調に昇進した。
延喜11年(911年)左中弁として京官に復すと、翌延喜12年(912年)右大弁に昇任し、延喜13年(913年)参議兼左大弁に任ぜられ公卿に列した。議政官として左右大弁を兼ね、延喜14年(914年)に従四位上に昇進している。延喜21年(921年)正月には正四位下、次いで従三位・中納言と続けて昇進した。この間、『延喜式』『延喜交替式』の編纂にも参画している。
延長3年(925年)5月6日薨去。享年67。最終官位は中納言従三位。
京都市伏見区にある道澄寺は、清澄が甥の藤原道明(良基の外孫)と共に創建したと伝えられている。
官歴
『公卿補任』による。
系譜
娘・巌子が藤原中正と結婚し、その所生である時姫が藤原兼家(後の摂政)と結婚してその子孫が摂関家を継いだことから、10世紀後期に橘氏の公卿が途絶えると、摂関家が是定の地位を占める口実とされた(藤原道隆・道長ら兄弟は澄清の曾孫にあたるため)。
脚注
- ^ 『日本紀略』『公卿補任』による。『尊卑分脈』は同年9月3日とする。
- ^ 『公卿補任』
- ^ 『系図纂要』
- ^ 『大日本史 卷之一百十五』:攝津守藤原中正妻,澄清女也,生女,侍攝政兼家,生大納言道隆。以故,詔道隆為是定。【公事根源。】自後橘氏叙爵,皆屬藤原氏。【職原抄、公事根源。】
- ^ 前田本『日本帝皇系図』(赤坂[2017: 18])
参考文献