播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、生年不詳 - 景行天皇52年5月4日)は、第12代景行天皇の皇后。日本武尊(ヤマトタケル)の母。針間之伊那毘能大郎女・印南別嬢とも。
記録
古事記
「針間之伊那毘能大郎女」または「伊那毘能大郎女」と表記される。吉備臣らの祖の若建吉備津日子(孝霊天皇の皇子)の女で、櫛角別王・大碓命・小碓命・倭根子命・神櫛王らの母親とされる。また、妹として伊那毘能若郎女が記され、同じく景行天皇の妃であったという。
日本書紀
「播磨稲日大郎姫」と表記され、景行天皇2年3月3日に皇后に立てられた。大碓皇子(おおうすのみこ)・小碓尊(日本武尊)の母とされるが、この他に稚倭根子皇子(わかやまとねこ)の母とする説も注している。また、稲日大郎姫の名の異説として「稲日稚郎姫」を挙げており、これは『古事記』で妹とされた伊那毘能若郎女に通じる。なお、景行天皇52年条に薨去記事がある。
播磨国風土記
記紀のイナビノオオイラツメは、『播磨国風土記』の賀古郡・印南郡条に登場する「印南別嬢」と同一人と考えられる。「ワキイラツメ」の名は、『古事記』で妹とされ、『日本書紀』で別名とされた「ワカイラツメ」の名に通じる。風土記によれば、印南別嬢の父は丸部臣の祖・比古汝茅(ひこなむち、彦汝命か)、母は吉備比売(きびひめ)である。景行天皇は印南別嬢を妻問いに播磨へと出向いた。別嬢は身を隠したが、天皇に探し当てられ、2人は城宮(加古川町木村?)で結ばれた。年経て没した後は日岡に墓を造ったが、遺骸を運ぶときに川の中に沈んでしまい、櫛箱と比礼(薄い肩掛け)のみを埋葬したという。しかし彦汝命は成務天皇と同世代であり、印南別嬢の父とする系譜関係に疑問を呈せられることもある[要出典]。
陵
陵(みささぎ)は、宮内庁により兵庫県加古川市加古川町大野にある日岡陵(ひのおかのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「日岡陵古墳」で、墳丘長約80メートルの前方後円墳である。