安田 公義(やすだ きみよし、1911年2月15日 - 1983年7月26日)は、日本の映画監督。日活京都撮影所に入社、日活が戦時統合で大映になってからも同撮影所が改称した大映京都撮影所で、一貫して時代劇を撮りつづけた。
来歴
東京府品川町(現在の東京都品川区)に生まれる[2]。太平洋美術学校卒業後には[1]、日本画家を志し、絵を学ぶも、知人の勧めで[1]、1930年代に日活京都撮影所に入社、山中貞雄に師事[2]、丸根賛太郎、衣笠十四三、稲垣浩らの助監督を経て、第二次世界大戦による戦時統合で同撮影所が大映京都撮影所となったのちの1944年(昭和19年)に『お馬は七十七万石』で助監督ながら仮の監督に昇進する[1][2][3]。映画『その夜の冒険』でのキスシーンが話題を集めた[1]。
戦後も引き続き大映京都撮影所に所属して時代劇を撮る傍ら、1949年(昭和24年)の『最後に笑う男』で正式に監督に昇進して以来[1]、大映東京撮影所にも借り出され、新東宝や宝塚映画でも監督をしている[3]。今日でも人気の高い大映京都の特撮映画、大魔神シリーズ、妖怪シリーズの両方をスタートさせた監督でもある。
1964年(昭和39年)、『風雲児半次郎 唐芋侍と西郷』でテレビ映画に進出、テレビ映画『東京警備指令 ザ・ガードマン』等の現代劇も手がけた。
1971年(昭和46年)の大映倒産以降は、おもに勝新太郎と行動をともにし、テレビ映画『座頭市物語』や『痛快!河内山宗俊』等を手がけた。
1983年(昭和58年)7月26日に死去した。満72歳没。
人物・エピソード
妹の安田富士子も映画界入りし、深水藤子の芸名で女優となっている[4]。
撮影姿勢は几帳面で、元々二科展に通ったほど絵心があり、自ら必ず絵コンテを描いた。絵コンテは撮影現場で日々描き直されるものだが、安田は1か月前に描いた絵コンテでも絶対に変えようとせず、絵コンテの描き直しで現場スタッフとよく揉めたという。この絵コンテ通りに、美術デザイナーに指示してセットを組ませていた。森田富士郎キャメラマンによると、安田の描いた絵コンテで天井の梁が描かれていたが、セットで人物を撮ると絵コンテ通りの位置に梁があり、驚かされたという。映画音楽では、伊福部昭が好きな作曲家だった。監督作品への起用も多い[5]。
京都の亀岡の土手でのロケ撮影で、助監督が大勢エキストラを用意したが、安田は不思議そうにしている。森田がよく聞いてみると、安田が絵コンテに「お地蔵さんの列」のつもりで描いたものを、助監督が「群衆」と勘違いしたものだった。「お地蔵さんならもう少しそれらしく描いて下さいよ」と助監督が憤然とする中、スタッフ一同大笑いしたという[6]。
おもなフィルモグラフィ
映画
日活京都撮影所
大映京都撮影所
大映倒産以降
テレビ
註
外部リンク
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